彼女の存在は肥溜めの中で一際異彩を放っていた。彼女の前では子供も大人も、善人も悪人も、等しくただの「人間」でしかなかった。それほど異質な存在で、だが何がそうさせているのかは僕には解らない。柔和な微笑みなのか、敬いを欠けない姿勢なのか。今日も彼女は子供を観客に着け、デュエルモンスターズの手解きをしていた。
「今日も来てくださったんですね」
「君のデュエルが気になってね」
「プレイスタイルもデッキもいつもと変わらないでしょうに」
何を可笑しなことを、という風情で肩を小刻みに震わす。とても同じ住民とは思えないほど、所作の細部まで清廉されている。こんな人が荒くれ者の集うここに落とされた理由はなんだろうと、解決されることのない疑問を抱く。彼女は僕との挨拶をそこそこに、再び対戦者に顔を向けた。目下で織り成す闘いは華麗という他見当たらない。なるほど、そうくるか。昨日とは違う戦術に思わず感嘆した。悔しがる子供に一言。
「上達しましたね、また闘いましょう」
馴染みのフレーズを桃色の唇に乗せ、皆の心を魅了する微笑みを浮かべた。歯ぎしりしていた子供も顔に華を咲かせて「うん!」と元気よく返す。昨日も一昨日も、その前も見た光景。誰しもが見た光景で、見慣れた光景。寸分の狂いもなく組み込まれたシステムかのよう。違和感など感じさせるべくもないこの光景に、僕はそろそろ限界を感じていた。次の子供が先手を打つ前に僕が名乗り出る。
「次は僕としてくれないか」
そう言えば彼女は目を丸くした。初めて会った時から傍観に徹していた人からの対戦の申し入れなのだから、そんな表情をするのも無理はない。彼女の中では僕は「非デュエリスト」なのだろう。その証に腰からデッキを取り出せば、いよいよ彼女は認めざるを得なかった。驚きは束の間で、彼女は目を細めて笑んだ。
「ぜひやりましょう」
自分と対面する席、と言っても白光に晒されたこの場所に席と言える席など無く、切り倒された樹木の断面を席代わりとして利用しているに過ぎない物だ。すぐさま取り囲む子供から野次が飛ぶが、僕の関心はもはやそんなことを取り留めることなかった。あくまで冷静に出方を待つ彼女。僕は言った。
「僕は人見知りでね。できれば君とふたりきりでやりたいのだけれど」
「構いませんよ。でもここは寄せ集めの区画。どこに行っても人から逃れることはできませんよ」
「それなら安心して。良い場所を知ってるんだ」
「そうなんですね。いいですよ、行きましょう」
野次の集団のひとつが大きく駄々をこねる声を上げるが、彼女は優しく宥めて席を立った。行き交う老若男女は彼女に挨拶を欠かさない。彼女もそのひとつひとつに丁寧に応える。物を落とした老人にそれを拾ってみせ、探し物をする子供を手伝ってやる。彼女はほんとうに異彩を放つ存在だ。僕の中でも彼らの中でも。そしてこの煤汚れた世界でも。その度にごくりと喉が鳴り、得も言われぬ感情に腹を掻き乱される。早く、早く。それは鼓動を刻む心臓のように逸り、うだる暑さに噴き出る汗のように熱を持て余す。
「ここだよ」
「ひんやりとして暗いですね」
「窖だからね。蝋燭に火を灯せば明るくなるよ」
壁際に寄って手で蝋燭を探せば、すぐに見つかった。慣れた手付きでマッチを擦り点火する。ぼっ、と短い音と共に薄暗い部屋が仄暗く浮かび上がった。僕が構える住居の地下は非常に簡易な構造となっている。そこに置かれた物も。牢獄と見間違われるほどに何も無いそこには、けれどもひとつの台は確かにある。人の腰ほどある台をふたりで挟む。蝋燭の暗い灯りに彼女の顔貌はいつもとは違う雰囲気に照らし上げた。しかし表情は崩れない。暗闇さえ一掃しそうな美しい微笑み。彼女は白亜の腕を伸ばしてデッキから手札を引く。
「先攻後攻、私はどちらでも構いません」
「その前にひとつ提案があるんだ」
「提案?」
「ほんとうの君と闘いたい」
僕はこの時をずっと待ち望んでいた。きょとんとする彼女がどのように変貌するのかを憶測すればするほどこの気持ちは膨れ上がっていく。決壊したように言葉が口から滑り落ちる。そしてそれを聞いた彼女の眉が僅かに反応するのを、研ぎ澄まされた神経は見逃さなかった。けれど彼女は目を細めた笑みのままに首を傾ける。
「何のことでしょう」
「僕は誤魔化されないよ。だからここに呼んだんだ」
慈顔に隠されたその裏に、僕は長いこと惹かれていた。解らないことに惹かれていたのかもしれない。彼女は手札を静かに伏せる。落とされた溜息と共に瞼が閉じられた。呆れるようにも見えた。
「ありもしないことを聞かせるためにここに招いたのですか。あなたの認識を改めなければいけないようですね。そんなお人だとは思わなかった」
「そんなに怖いのかい?」
「何が」
今度はあからさまに眉を歪めた。声も低い。少しづつだが顕著に厚い皮が剥がれてきている。険相になって解った。君の眦って鋭いんだね。
「本気で対戦できないほどの臆病者とは思わなかった。僕こそ君への認識を改めないといけないようだ」
さて、次はどう出るか。相手の表情を窺見すれば、逆にこちらが目を見張ってしまった。僕を捉える視線の温度に全身が総毛立つ。地面から這い出た何かに拘束されたように動けない。けれども僕の視線だけは妙に生き生きしていて、その先に彼女を見据える。浮かべるものはなく、それはまさしく「無」であった。そこに闘志はなく、慈愛もなく、そして敵愾心も窺えない。柳眉が均一に整えられ、僕を見据える視線は平生の彼女から程遠い。生きとし生けるもの全ての動きが止まるこの空間で、彼女の布が擦れる音だけが響く。台に置いたデッキを取り上げる。煽りすぎたか、一縷の焦燥は瞬く間に潰えた。取り出したのはもうひとつのデッキだった。それを静かに置いて手札を引く。
「これは本気になった時にしか使わないデッキなの。相手を潰すためだけに作り上げた、言わば闘志を破壊する破壊デッキ」
蝋燭の火が顔の暗翳を明瞭に照らし上げ、そして彼女の相好は今まで以上に僕の目に鮮明に飛び込んできた。顰められた眉と、釣り上げられた眦。どうやら僕は勘違いしていたようだ。とんでもない勘違いを。
「無慈悲に潰してあげる」
彼女の双眸はこの上ない闘志に燃え盛っていた。