今日もそいつは教科書を忘れた。自分の教室であるかのように入ってきて、俺に手のひらを突き出した。満面の笑みを浮かべて。
「またかよ!」
「ごめんて。あの先生罰則与えるからさ、ね?」
次はちゃんと持ってくるよ、とふざけながらに笑った。何が「次は」だ。次も忘れるの間違いだろ。毎度のやり取りと変わらない態度に不服ではあるが、鞄からボロボロの教科書を取り出して手のひらの上に置いた。ぱっと目を輝かせて「ありがとー!持つべきものは克也だね!」そう言ってそいつは教科書を大事に抱えて笑うと、そこへ杏子が顔を出した。
「やってるやってる」
「なんだよ」
「いーや? ふたりともいっそ付き合っちゃえばいいのにねぇ」
「はあ?」
「だってあんたに合う女の子って名前くらいでしょ」
「誰がこいつと!」
「そうだよ、杏子ちゃん。私たちただの幼馴染ってだけだよ」
素気無い俺の態度にそいつも同調した。当たり前だ、名前とは昔からの腐れ縁という仲でしかない。杏子は「どっちでもいいけど、もうすぐ予鈴鳴るから戻りな」と言って名前の背中を押して教室から追い出す。じゃあ帰りにね、そう言ってそいつも自身の教室へ走り出した。くだらねぇと思う。俺とあいつが付き合うなんざ。それから程なくしてセンコーが入ってきたので、そのまま授業が開始した。授業が終わり放課後になる。遊戯たちは用事があるからと、手を振って教室を出ていく。あっという間に静けさが訪れた。窓辺の席からグラウンドを見下ろせば、運動部が活動している最中の光景が飛び込んでくる。不意にあくびが漏れた。
「別に待ってやることもねえしな」
第一、俺は待つと言っていない。あいつが勝手に言ってきただけで。どこまでも広がっていた青は見る影もないほどに西日の色に染まり切って、どこからともなく鴉の鳴き声が聞こえてきた。今日は分が悪いことにバイトが入っていない。入っていたら早く帰れていたものを。あくびがもう一度漏れる。くっそ、デュエルできない時間なんて辛いだけだぜ。遊戯ん家行けば相手してくれっかな。そうだ、デッキ調整しよう。昨日ちょうど新弾買ったばっかだったぜ。ぼんやりとしていた気分から一転して、我先にと鞄に手が突っ込む。指の腹に硬いものが触れたその時。教室の戸が前触れもなく突然動いた。
「お待たせー」
廊下との境に立っていたのは、帰り支度を済ませた名前だった。パックを開封しようとしていたのに間が悪いことこの上ない。惜しまれつつも手はすっと鞄から顔を出す。悪びれる様子のない態度に顰蹙した。
「おっせえよ」
「先生に捕まっちゃった」
「はあ? 何したんだよお前」
「宿題忘れて補修してたんだよ」
「だっせー」
「出さない人に言われたくないんだけど? 来たんだし帰ろ」
「へいへい」
ったく、どっちが遅れてきたか解ってんのか。ぼやきたいこと山の如しだが、その一切を腹の中に押し込めて席を立った。こいつに何言っても意味が無い。杏子が言っていたな。なんだっけ、えーっと、「豚に念仏」だっけか? どっちもいいか。下駄箱で靴を履き替え昇降口を出る。腐れ縁は厄介なもので、帰路まで同じ方向だ。だから自然とこいつの今日あった事、要約すれば愚痴に付き合わされる。こんなにも鬱憤を溜める人付き合いってなんだよと何度も思うが、その都度「女子には女子の付き合い方があるの」と断言されてしまうので、俺は最近になって聞き流すという賢い術を身に付けた。
「にしても杏子ちゃん、私と克也に付き合えなんて面白いこと言うね」
「馬鹿にしてるだけだろ」
「そうは思わないけど有り得ないよねー。私と克也が、なんてさ」
「たりめーだろうが。教科書を毎度忘れる奴となんか付き合えるかよ」
「よく言うよ。この前のテス勉教えたの誰だったか、もうお忘れになって?」
「細けえな!」
食って掛かればそいつはくすくすと笑う。肩を震わせて。心から可笑しそうに、楽しそうに。愚痴吐くくらいなら帰り道ずっとその顔してりゃ、そしたら少しは一緒に歩いてる俺の気もマシになるってもんなのに。同じペースで歩いていたそいつは、急に足を止めた。数歩先を歩いて俺も止まる。振り返ったらそいつは俺をじっと見つめて、そして笑って言った。
「でもこう見えて意外と克也には感謝してるんだよ。友達になれて良かったな、とか。だからこれからも私と友達で居てね」
あまりにも嬉しそうに言うもんだから、腹の底で静まっていた何かが起き上がってしまい、無性に腹が立ってきた。
「気持ち悪ぃこと言ってんじゃねえよ」
思わずそう吐いて、顔を背けた。自分でもらしくねえと解っている。こんなの八つ当たりでしかないことも。冷たく吐いた言葉でも、後ろのあいつは恐らくいつもと変わらない顔で飲み込んでいるのだろう。克也らしいね、そう言って何も思わずに。悲しむことも、傷つくこともなく。くっそ、腹が立つ。うざい。むかつく。舌打ちする。胸の部分が言いようのない感情に呑み込まれて、感情のひとつひとつが、ぱちんぱちんと弾け飛ぶようだった。癇に障るとはこのことだと思った。海馬に舐められた時と一緒のようで違う感覚だ。かつ、かつ、といつの間にか靴の音が規則正しく重なっていることに気付く。後ろで止まっていたそいつは隣を歩いていた。視線をずらすだけで見える頭部。遊戯なら顔まで見れるんだろうが、俺は椅子に座らねえとこいつの顔までは見えない。
「だからさ、彼女作ったら友達として会わせてよ」
こいつが今、どんな顔してるのか全く解らねえ。それ故に知りたくなる。だがそれを行動に移せないのは、俺がブレーキを掛けているせいか、それともこいつの境界線がはっきりしているせいか。「友達で居てね」か。お前が思う友達ってやつは、相手に考えひとつ読み取らせねえものなのかよ。言ってしまえば楽なのに。のらりくらりと交わすこいつに腹が立つ。だがそれ以上に、この関係を崩したくないという甘えに走って、結局いつまでも煮え湯を飲んでいる自分に一番腹が立つ。彼女にさせてくんねえのはお前の方だろ。なあ、お前は俺の気持ち解ってんのか?