今日は金曜日で明日は土曜日。長いと感じた平日もようやく休みに入ることで、昇降口の活気は木曜のそれを軽く上回っていた。どこで遊ぶか、何をしようかなど、意識しなくてもたくさんの話し声が入ってくる。杏子は先に帰ってしまったので、今日は僕ひとりで靴箱に立っていた。帰ったらデッキの調整しようかなと考えに耽ける僕の肩が、急に重くなる。
「やっほ、遊戯くん」
「あっ」
背後に立っていたのは杏子の紹介で仲良くなった苗字さんだった。人懐っこい笑顔で「今日はやっぱ一段とうるさいよね」と毒を吐きながら別クラスの下駄箱で靴を履き替える。同学年だけど別クラスの彼女とは委員会が一緒の時もあり、共通の友人を持っているともあって、通りがかった時のみ挨拶していたあの頃と比べて、今ではたまに一緒に遊んだりする仲にまでなった。鞄を肩に掛け直し、「色々詰めると重いなぁ」とぼやく彼女の荷物の多さに興味が引かれた。
「荷物多いね。画材なの?」
「そうだよ。部活の課題がさ、締切間近なんだよね。完成しそうにないし、家でも少し進めた方が明日かなり楽になると思って」
「明日って。登校するの?」
「うん。顧問がいいよってさ」
そうなんだ、と返す。明日、来るんだ。休日の学校に登校して勉強する子は少なくない。今は夏休み間近ともあってそんなに見かけないけど、部活動してるとそういう子も居るんだ。
「ひとりでやるの? 明日」
「そうだねぇ。家でやるか終わらせてる子ばっかで、明日美術室使うの私だけ」
斜め右上を見つめながら思い出すようにして話す彼女に、僕は内心どうしようか迷った。特に明日は予定ないし、ぼ、僕も明日登校しようかな。思考の渦に呑まれて俯いていると、上から彼女の声が降り掛かってきた。あっ、と顔を上げる時にはその姿はなくて、彼女が立っていた場所は、既に雑多に隠されてしまった。
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迎えた翌日。僕が前にしているのは通い慣れた校舎だった。き、来ちゃった。土曜の校舎は思った以上に活発で、抜けるような青空には雲の峰が堆く積み上がっており、それはまるでグラウンドで走り回る運動部の生気を吸っているように思えた。蝉の鳴き声が四方八方から聞こえてくる中、肌に張り付いた服で噴き出た汗を拭う。熱いや、早く中に入ろう。僕は照りつける日差しから逃げるように昇降口に滑り込んだ。湿気を押し込めたような昇降口で靴を履き替え、さてどうしようか。
「もう来てるのかな」
別クラスの下駄箱を窺うのは、少しの緊張が伴われた。ただ見るだけの行為。されど僕には人の手紙を覗き見るような背徳感を覚えずにはいられなかった。彼女の下駄箱は。視線でなぞりながら件のそれを探せば、思いのほか早く見つかった。ローファーが入っているのを見て、苗字さんが登校済みであったことを知る。居るとしたら教室か美術室だと思うけど、どこに居るんだろう。先に彼女の教室に行ってみようかな。立ち往生していると、廊下の奥からスリッパの音が響いてきた。誰だろうと首を向ければ、姿を現したのは鍵を手にしていた彼女だった。
「遊戯くんじゃん」
「お、おはよ。早いんだね」
「今来たとこだよ。美術室の鍵貰ってきたんだ」
人差し指で鍵についている輪っかをくるくると回す。だけど僕の視線は鍵でも、彼女の言葉でもなく、自覚することすらはばかられるけど、胸元に行ってしまっている。なんでリボン付けてないの!? それどころかいつもは締めている第一ボタンまで開けられていて、白のワイシャツから鎖骨がちらっと顔を出していた。皮膚が骨の形に歪み、シャツは隆起した骨の形によって隙間を作る。
「遊戯くん?」
なんだか見たらいけないものを見たような気になってしまって、不思議そうに呼ぶ声にも反応できずに顔を背けた。羽織っているカーディガンもなくて、半袖のシャツから細い腕が顕になっている。杏子やミホちゃんの時は何も感じなかったのに、彼女の場合だと自分が自分でなくなりそうな錯覚をしてしまうのだ。身体の内側で太鼓でも叩いているのか、呼吸によって起伏する胸のリズムが短くなったように感じた。なんて話せばいいんだろ。いつも以上に緊張してしまって、自分が普段どのように彼女と対話していたか過去の記憶を手繰りよせる。すると急に視界に彼女の顔が割り込んできたので、びっくりして肩が跳ねてしまった。
「あ、生きてた」
「びっくりさせないでよ!」
「ごめんごめん。だって急に静かになるんだもん、遊戯くん」
「そ、それは」
「それより遊戯くんもなんかやり残したことあるの?」
「え?」
「そうじゃなきゃ来ないでしょ」
今日、土曜だよ?と平然と突っ込まれる。聞かれた時の答え考えてなかった! 苗字さんが来るから来てみた、なんて引かれるよねきっと。どうしよう。しどろもどろに狼狽えれば、飽きたのか彼女が「まあいいや。私行くね」と回していた鍵をぎゅっと握った。脊髄反射で彼女を見れば、今まさに踵を返そうとしている。
「待って!」
その踵が引かれたようにその場に留まる。
「ん?」
「その、君が迷惑じゃなかったらだけど、絵描くところ見ててもいいかな?」
「私はいいけどやることあるんじゃないの?」
「教科書! 忘れちゃってどうしようか考えてたんだ」
「なにそれ。本末転倒じゃん」
おかしそうに吹き出して、楽しそうに肩を揺らす。かっこ悪い言い訳だと自分でも思う。でも、笑う彼女の姿から目が離せなかった。
「つまんないと思うけど見たいなら見てていいよ」
蜜に誘われる虫のように、手招きされるままに彼女の背中を追った。解っていたけど美術室は蒸し暑かった。「暑いね」と言って窓を開放する彼女の髪を、喉の水分を奪っていきそうな風が撫でた。青空に彼女の白い歯はよく映える。手を団扇代わりに仰いで準備に取り掛かった。モチーフをセットしてイーゼルの前に腰を下ろす。僕はと言えば、邪魔にならず、絵を見るという建前のために彼女の斜め後ろに椅子を置いた。描き途中のカンバスを台に乗せて、絵の具をパレットに出して行く。一連の流れに淀みはなく、出す色に迷いもなかった。白のパレットにはあっという間に五色以上の絵の具が埋めつくしていた。
「飽きたら途中で帰ってもいいからね」
「そんなことしないよ」
「そう? でも意外だな、遊戯くんが絵に興味あったなんて。城之内くん達とずっとゲームしてるからさ」
苗字さんの傍で君をもっと見てたいんだ、なんて言えるわけもなくて言葉を濁してしまう。それからしばらくの間は彼女から言葉が飛んできた。来週提出の課題やったのか、志望校は決めたのか、個展を開くからその誘いなど。初めて知ることもあれば、うんうんと頷くこともある。ゲームのことを聞かれて僕は飛ぶ魚のように食らいついて話した。途中、ふと我に戻って熱くなりすぎたかと自重したが、その心配に反して苗字さんは僕の言うひとつひとつの熱意を、心から楽しそうに聞いてくれた。それがなんだか、共通の趣味を持てたような嬉しさを感じて、口数が多くなっていった。それも一時間を過ぎれば次第に会話が減っていくもので。喉が渇いたと感じる頃には、美術室に反響するのは窓の外から聞こえてくる運動部の掛け声だけだった。額にゆっくりと浮かんでくる汗を手の甲で拭う。水筒持ってきて正解だと思いながら冷たい水を喉に流し込んだ。登校したばかりの空は焼かれるように熱い色をしていたが、美術室から眺める空はそれと比べてやや落ち着いている。天高く積み上げられた本を崩したような雲が、海の中を泳ぐように自由気ままに伸びている。
「ひとつ聞いていい?」
「あ、うん。なに?」
静かだった彼女の声にちょっと驚いてしまったが、すぐに平生になる。カンバスを縦横無尽に伸び縮みする筆は動かされたままで、彼女の視線はモチーフとカンバスとを忙しなく行き来している。何を言われるんだろうと、膝に置いた手のひらを爪の先が歪めた。
「遊戯くんって、私のこと好きでしょ」
その瞬間、強く吹いた風の音が教室を包み込んだ。荒っぽい風の音が止み、彼女は自身の髪を手で抑えて耳に掛ける。モチーフを見てた彼女の瞳が流し目で僕を映した。心臓が爆発するってこういうことを言うんだと、過言でないくらいの痛さが脳を直撃し、その衝撃で言葉は出せなかった。スロー再生のようにゆっくり振り返った彼女は、間違いなく金魚になってる僕の反応を見て、桃色の唇に三日月を浮かべた。同い年でありながらも油断できない雰囲気に、あれほど騒ぎ立てた心臓は一気に凍りつく。唇を噛み締めて視線をずらせずに居た。
「私はね、遊戯くん」
風が吹く。カーテンが擦れる音がする。僕の心臓を掌握した彼女の挙動は、僕の意識すらも容易く飲み込んで、放った言葉さえ隠してしまう。それは僕に教えたくないからか、僕で遊んでいるか。解らない、解らないけど、普段の裏表ない苗字さんから豹変した様子に、腹の底に寝静まっていた何かが首をもたげるのを、僕の耳は聞き届けた。