皺ひとつないスーツ。髪の毛一本まで整えられた髪型。鞄を取って靴に踵を通す。そして最後に、必要最低限の家具だけが揃えられた部屋に向けて一言。

「行ってきます!」

誰も居ないけど、背中を押されるようにして外へ出た。目の奥を刺す勢いで眩しい陽光に思わず目を眇める。少し固い己の身体に新鮮な空気を取り込もうと深呼吸して肩を落とす。少しだけ気が楽になったような感覚。

「いよいよ今日。頑張らなくちゃ」

喝を入れるわけじゃないけど、気を持ち直そうと思って両頬を軽く叩いた。今日は待ちわびた会社の面接日。しかもただの会社じゃなくてあの海馬コーポレーションである。十人受けてもひとりの合格者を出すか出さないか解らないくらい倍率が高い会社で、しかも面接担当は社長直々ときた。ネットで社長の面接が苦痛とか怖いとか見たせいか画面越しで恐怖心が伝染したけど、私は何としてもこの会社に受からなければいけない。いや、受かりたい。約束を果たすために。電車を乗り継ぐこと一時間。ようやく、本社を構える童実野町に着くことができた。

「うわ、凄い人の数」

平日の朝早い時間だから当然と言えば当然だが、驚くくらい人数が多い。うかうかしてると流されそうだ。思わず浮きそうになる足に力を入れて前へ一歩踏み出す。おしくらまんじゅうしてる人混みを掻き分けて、やっと思いで改札口を抜けた。私が住むところはここと比べたらだいぶ田舎な場所で、見渡す限り胸を踊らせる建造物ばかりで無邪気な子供の頃に戻りそうだ。都会のファッションという格好で我先を急ぐ人達に圧倒されつつも、面接まで時間が無いことを思い出してアスファルトを蹴った。数える程しか訪れたことない新天地だけど迷うことなく海馬コーポレーションの本社に辿り着けた。斬新な形のビルの門を潜る。

「あのう、今日面接を受ける予定の者なんですが」

「はい。お待ちしておりました。会議室にて行いますので、ご案内致します」

「あ、はい。ありがとうございます」

スーツを着た美人の女性社員に手招きされて着いていく。さすが最先端を往く海馬コーポレーションだ、ビルのそこかしこから肺がすっきりするような匂いで満ちている。大理石というのか? てかてかに光を反射させる石で作られたエレベーターに乗ること五分。階数はみるみる大きな桁を示していく。そしてピン、と会場に着いたことを音が知らせた。エレベーターの扉が開き初めて見る廊下が現れた。先導する女性社員の後を追って案内されたのは「第一会議室」のプレートが壁に埋められた扉の前だった。女性社員はそこでようやく振り返る。

「この部屋の中に社長が待っています」

「解りました、ありがとうございました」

「社長、面接の方がいらっしゃいました」

コンコンと扉をノックしてそう言えば、中から低い声が返ってきた。

「入れ」

「失礼します!」

女性社員に軽く会釈して扉のノブを回した。軽く押したらすぐ開く扉なのに、重く感じられた。全身鋼鉄でできた扉を押すような感じ。中で待っていたのはネットやテレビでよく見かけるあの海馬社長その人だった。とてつもなく広い会議室でひとりの人間が座っているだけなのに、まるで何十人からもの視線を受けているように喉が苦しい。パソコンに向けられていた視線がこちらへ動く。

「座れ」

「は、はい!」

睨めつけられるまま用意された椅子に重い腰を下ろす。大丈夫かな、何か変じゃないかな。髪型、大丈夫だよね。こんなことなら着く前にお手洗いに行っとけば良かった! 内心の焦燥が汗の分泌を早くさせる。気分がざわついて一向に落ち着かないけど、手をぎゅっと握ってなんとか平静を取り繕う。すると社長が言葉をかけた。

「貴様の志望動機を聞いてやる。述べろ」

「はい」

落ち着け自分。私はこの日をずっとずうっと、十五年も待ち望んでいたじゃない。何も焦ることない、ゆっくり言えばいい。ばれないように深呼吸して社長を真っ直ぐ見据える。相変わらず他人に興味を示さない態度でも、私にとってこの人は恩人にあることには変わりない。

「海馬さん。私は約束を果たしに来ました」

幼い私がした、ひとつの約束であり長年の夢。遡ること十五年前。









あの時の私は五歳か四歳だった。両親を不慮の事故で亡くして県が経営してる孤児院に入れられた。頼る祖父母や親戚が居なかったためだ。生活水準が高い今の時世で、孤児だからと生活に不便することはなかったけど、それでも精神に堪えるものは確かにあった。それまで無償に愛してくれた両親を失い、代わりに「親を亡くして可哀想」「こんなに幼いのにこの先どうするんだろ」など、まるで中身のない憐憫と同情の眼差し。ある日のこと、可哀想可哀想と見下されることに我慢ならなくなった私は無断で院を飛び出したのである。今となれば多大な迷惑をかけたことに全力で平謝りしたいものだ。帰る場所も行く宛てもなく逍遥する私の足を止めたのは子供たちの笑い声だった。絶え間なく続く笑い声は「海馬ランド」というテーマパークから発せられていて、五歳の私の好奇心と関心を占めるには充分すぎるものだった。だけどすぐに望みは潰えることになる。そこへ入るには入場料が必要だったのだ。当時の私にそんな手持ちがあるわけもなく、その場にへばりついていた足を動かそうとした。その時だった、今に続く夢を抱くことになった本人と邂逅したのは。

「そこのお前。何を俯いている」

頭上から降り注がれた声。自分じゃないだろうと思いつつもそれに引っ張られて面を上げれば、目の前に立っていたのは海馬さんだったのだ。海を映したように青い瞳は真っ直ぐに、力強く私を捉えていた。初めてひとりで喋る大人の人に戸惑いがなかったわけじゃないけど、でも返答しないと、って気持ちで言葉を紡いだ。

「あそこって遊園地なの?」

「ああ」

「ふうん」

観覧車、ジェットコースター、メリーゴランドがある遊園地とは違ってたから解らなかったけど、海馬さんはそう言いきったのでそうなんだと得心させた。だけどこの遊園地に私は入れない。だったら見ててもしょうがない。早くどっか行きたい。そう思ってたら、会話を続けたのは意外にも海馬さんだった。

「行くぞ」

「えっ、え?」

それだけ言って海馬さんは私の腕を掴んで引っ張っていく。ずんずん進んで入場口が近づいていく。吊られて心臓がうるさくなっていく。言い分を聞かず前進する海馬さんの背中に向けて声を張った。

「わたし! お金もってない!」

そう言えば開放されるだろうと思っていた。普通のことだ。入場料を払えないなら入れない。だから腕を離されるだろう、そう思っていた。

「お前が言うまでもなく解っている」

だけど海馬さんは言いきったからそれ以上言葉が出なかった。驚いたとか、嬉しいとか、そんな気持ちよりも「なんで?」という疑問の方が強かった。五歳でも入場者なんだから入場料を払うのは当たり前のことなのに、海馬さんはまるで自分が払ってやると言わんばかりに入場口へ連れて行くのだ。でも海馬さんが財布を取り出すことはなく、スタッフの人にそのまま通された。もちろん私を含めてだ。顔パスというやつだろうかと思った。後になってから海馬さんが経営するテーマパークであることを知ったから、その時はただただ不思議だったな。諦めていたテーマパークに入れたことにきょとんとする私を他所に、海馬さんは毅然とした態度を崩さず言った。

「お前の行きたい場所を言え。俺が連れて行ってやる」

「いいの?」

「フン。遊具は遊んでこその遊具だ。乗らないならそれに存在意義はない」

小難しい言葉を使ってるけど要はいいよってことなのかな? 突然連れてきた海馬さんに不信感もあったけれど、その時の私は、それよりも新しく見るアトラクションに対する好奇心が勝っていた。繋がれた手をきゅっと握り返す。

「人気のところ行きたい!」

それから海馬さんにお願いするままいろんなアトラクションに乗って遊んだ。青々とした空が残日の紅一色に染まる時間まで、両親のことや孤児院の枷から解き放たれたように束の間の夢に没頭した。けれども夢に終わりはあるもので、場内に店が閉まる時の音楽がゆったりと流れた。その時になって一時顔を背けていた気持ちや感情がどっと押し寄せてきて、喉を迫り上がってくる痛みに思わず泣きそうになった。買って貰ったジュースのストローを噛み潰す。私はここを出たら院に戻らなければいけない。見下される毎日に耐えないといけない。そう考えたら口の中が苦い薬の味で満たされた。帰りたくないと強く思ったけど、帰らないといけないことも頭の片隅で理解していたから言葉にはできなかった。それまでずっと疑問だったことを海馬さんにぶつけてみる。

「なんでわたしを中に入れてくれたの? おかね持ってないのに」

「くだらん。俺が実現させたかった目標がそれに当てはまっていただけだ」

「あなたの言うことはむずかしくて、わからないよ」

「解らないならそれでいい。その必要もないからな」

言及しても教えてくれそうになかったので、渋々引き下がることにした。いよいよ別れる時が来た。テーマパークからそぞろに帰っていく子連れの家族や恋人たちはどれもみんな楽しそうで、この場所にちょっとの未練もないように見えた。でも私はそうじゃなかった。この道に背を向ければもう来られないかもしれない。海馬さんと会えないかもしれない。そう考えてしまうからだ。どんよりとした気持ちが頭にのしかかり、自然と顔が俯いてしまう。帰りたくないと言えないのが余計辛かった。歯を食いしばって堪えていたら、海馬さんの言葉が降り注がれた。

「今日は楽しめたか」

今口を開いたら言葉が震えそうだったので、少し間を置いてから答えた。

「うん、とっても楽しかった」

震えていないといいな。願ってもそれは自分には解らない。せめて泣いてることはバレて欲しくない。海馬さんは泣き虫が嫌いそうだから。海馬さんは一言「そうか」と言う。

「ならまた来るといい」

ここで「うん」とか「また来る」とか言えれば良かったんだけど、私の口はついに手中に収まることを拒んだ。

「親がいないからもう来れない」

言った直後、はっと我に返った。何を言ってるんだ自分は、と口を手で覆う。何も海馬さんにこんなこと言わなくてもよかったのに。変な顔しているだろうか、それともあの人たちみたいに。遠慮がちに顔をあげれば海馬さんの表情は少しも変わっていなかった。私と会った時同様の、意志の強い眼差しをしていたのだ。だからどうしたと言わんばかりに。

「それなら成長し、働いて貯めた金で来ればいい。それほど気に入ったんだろう、この場所を」

「うん、楽しかったもん」

「両親が居ないといってお前の人生までもが終わったわけではない。事実こうしてお前は生きている。ここまで来たのもお前の手と足と、意志だろう。周囲など所詮当て馬と野次馬しかおらん。そんな奴らに割いてやる関心を全て己に向けろ」

院の人に言ったら「そんな人とは関わっちゃだめよ!」って卒倒しそうな言葉だと思った。けれどそれを平然と子供相手に言う海馬さんはきっと大人相手でも変わらない芯を持っている人なんだろう。初めて人の言葉に突き動かされた。意識せずともそれは胸の奥深くまで浸透し、耳も目も奪われたのだ。同年代の子なら震え上がるほど冷たく威圧ある眼光だけど、孤児と知った私に哀れむばかりの人達とは違い、「その環境に甘えるな。強くあれ」と本心から叱咤してくれた人。

「なまえ、聞きたい」

堪らず聞けば海馬さんはフンと顎を引いた。

「海馬瀬人だ。覚えておけ」

「わたしまたここに来るね。今度はちゃんとおかね貯めて」

自分と向き合ってくれたこの人に恩返ししたい。また会いたい。声を大にして言いたいほど強く思ったのだ。親を亡くして胸にぽっかりと空いた穴は塞げそうになかったけど、海馬さんの言葉に突き動かされたのも事実で恩返ししたいと思ったのも事実だった。帰りたくない院でも、そこで学んで大きくなって恩を返せると思えば少しはマシになった。

「腑抜けた面で来ないことだな」

眩しさに目を眇めていたから見間違いかもしれないし、そう在ってほしいという願望かもしれないけど、夕暮れの赤い空を背後に立つ海馬さんの口許が、微かに綻んだように見えた。私はあの日以来海馬ランドには行けていない。孤児院の都合と無断の外出によって十八になるまで外に出ることを多分に制限されていたからだ。だけどあの日抱いた夢は今日に至るまで寸分も色褪せず、朽ちず、揺らいでいない。

「海馬さんが覚えているかは解りませんが、私にとってあの出来事が人生の指針となったんです。その恩返しが志望動機です」

海馬さんを真っ直ぐ見つめれば、それまでパソコンを見つめていた視線が持ち上げられる。クールと言えば聞こえはいいけど、その実相手に興味の欠片もないといった眼差しだった。背筋に図らずとも力が入る。持っていた紙はテーブルに静かに置かれた。

「せいぜい俺の夢を拡大できるよう、海馬コーポレーションの一部になり尽力することだ」

海馬さんはそう言って「下がれ」と言い顔を再びパソコンに向けた。これは合格ということでいいんだろうか? どちらにせよ採用の可否はおって沙汰が下るのだ、家で大人しく待っていることにしよう。ありがとうございましたと会釈して鞄を手に持つ。扉のノブに手をかけた時。

「多少なりはマシな面になったな」

ついでの感覚で言われた言葉に、思わず感嘆詞を漏らすところだった。だってその言い方じゃまるで。弾かれるように振り返った。けれども海馬さんは忙しそうに仕事に取り組んでいる。

「あ、ありがとうございます!」

覚えてくれてありがとう、その気持ちでいっぱいだ。満ち満ちていく嬉しさに飛び跳ねるところをぐっと堪え、部屋を出た。海馬さんが覚えてくれていたなんて! それだけでも私には身に余る嬉しさだ。けれども私の恩返しはここからだ。

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