「観用人形」パロ。
怒涛のように押し付けられた仕事を終わる頃には、群青色が美しい空はすっかり暮れていた。月の輪郭がさながら別の惑星みたいに神秘的かつ異質に見えて、無意識に感嘆詞を漏らしていた。でも筋肉にまで染みた疲れは取れるはずもなく、次の瞬間には頭を垂れてしまう。
「疲れたぁ。あの人何でもかんでも私に頼りすぎ! おかげでこんな時間になっちゃったし。もういい加減断り文句のひとつでも覚えよ」
帰れることに対しての隠しきれていない嬉しさを押し込めつつ、申し訳なさそうに項垂れる同僚の顔を思い出して、行き場のない怒りを感じた。ここ一ヶ月ずっと頼られっぱなしな気がする。自覚させないとやばいかも。と、帰路でこんなふうに反省会を開くのだが、実行に移せたことはただの一度もないのである。現状が続くのはダメだと理解しても、相手を傷付けずに断る言葉が見つからない。私だって早く帰りたいから無理、なんて言ったらあの人傷つくだろう。そんなことを考えてしまって閉口してしまうのだ。悪い癖なのは解ってるんだけどなぁ。苦々しい空気が充満する肺を空にしようと、深い溜息を吐く。顔を持ち上げた時、視界の隅でひとつの店を見つけた。
「なんだろう、あれ」
看板がなければただの一軒家と間違えてもおかしくないほどのこぢんまりとした店だった。イタリアとかにありそうな風体を装った店の扉には「OPEN」と書かれた札が掛けられていた。人気を感じられなくても店内の電気が着いているなら営業中なのだろう。不思議そうに見つめているうちに、なんだか入ってみたいという好奇心が首を擡げた。
「見るだけなら無料だよね、きっと」
この店には何があるんだろう。その好奇心は竦む脚を動かし、ドアノブを引いた。からん、と入店を知らせる鈴の音が鳴り響く。踏み入れた私は飛び込んだ光景に目を疑ってしまった。様々な人形が店の壁を取り囲むようにして陳列している。それもただの人形ではなく、一体一体が個性を持った、つまり隣に居る人形とは全く違う顔を持つ人形たちであった。中華の服を着たり、ロリィタと呼ばれるフリルがたくさんあしらわれた服を着たりなど、どの人形たちもまるで生きた人間のように飾り立てられていて、初めて見る絶景に言葉を出せなかった。見るつもりで入店したのに、脚が全然動かない。いずれの人形も目は開けられていない。伏せられた瞼はまるで眠っているよう。六歳〜十代前後の女の子を象った人形たちの放つ雰囲気は、二十歳を越えた私の意識を掌握するには充分すぎるもので、故に近づく足音にも気づけなかった。
「気になる子は見つけた?」
「わっ!?」
声を掛けたのは店員さんだった。入った時には見かけなかったので、驚いて大きな声をあげてしまった。すぐさま「すみません」と謝れば、向こうも「こちらこそ驚かせてごめんなさい」と言ってきた。胸元で光るプレートに獏良と書いてあったのを見て、この店員さんの名前かな? と考える。店員さんはにこりと笑んだ。
「新顔のようだけど初めて?」
「はい。人形を直で見るのも初めてで」
「人形は好き?」
「うーん、それはちょっと解らない、かも。初めて見ますし」
「大丈夫だよ。初心者の人でも育てやすい子が居るから」
「は、はあ」
今育てるって言わなかったか、この店員さん。ホラーとしてはよく「捨てても戻ってくる」とか「魂が憑依しやすい入れ物が人形」とか聞くけど、人形を育てるなんて聞いたことない。初心者向けの人形を紹介すると言った店員さんに着いていく途中、棚に座っている人形のひとりを一瞥してみる。ふんわりと膨らんだ花柄のワンピースを着て、金色の細い毛束をくるくるに巻いた女の子。その肌は生まれてこの方一度も家から出たことがないまでに白くて、陶器で出来ているであろう玉肌は却って人間みを感じさせない。どう見てもただの人形にしか見えないんだけど、と思った時、先導する店員さんの脚が止まった。
「ここに居る子たちは皆生きてるんだ」
「えっ」
「正真の人間じゃないよ。この子たちは人間のご飯を食べたり、外へ行ったりしない。持ち主の傍にずっと居てくれる『観用人形』」
「プランツドール……」
初めて聞く単語だ。惚けていると、店員さんが一体の人形を取って見せた。腕に抱きかかえているのは、ゴシックなドレスを着た子で、伏せられた瞼は閉鎖的な雰囲気を醸し出す。深紅のボレロが肩を隠し、胸元には赤い石の嵌め込まれたネックレスが光を反射して輝いている。私はまじまじと見つめて、そして首を振った。
「綺麗とは思うんですけど、ちょっと、違うなって。すみません」
「そうだなぁ。気になった子は居る?」
「えーっと」
言われて店内を見渡す。一回転しても埋め尽くすのは人形の数々だった。
「あっ」
そこで店の奥に仕切りがあることを見つけた。電気が照らしていないため、私生活のスペースなのかとも思ったが、それにしてはやけに惹き付けられる。一角を隠すように赤い幕が降ろされているスペースに目を止めた私に、店員さんが言った。
「見てみる?」
「えっ。あそこって入ってもいいんですか?」
「店なんだから当然だよ。ただ、あそこにはここの子たちとは違った子が居るんだ」
「それってどういう」
「案内するよ」
詳細を語られないまま行ってしまったので、疑問をぐっと飲み込んで、垂れ幕に隠された一角へ駆けた。蝋燭が掻き消されたように薄暗くなった。それでも垂れ幕の色や、店員さんの存在は視認できるので、特に声を上げることもなく進んだ。しんと静まった奥の部屋にはふたつの靴音だけが反響して、進む度自分の心臓の鼓動が耳の傍で脈を打っているように聞こえた。かつ、かつ、と歩いていくとしばらくしてどこからか香りが漂ってきた。意識を持っていかれそうなそれは、進む先からくるもので、徐々に強くなっていく。店員さんが「着いたよ」と言って振り返る。
「き、綺麗」
開かれた場所の中央で、一体の人形が椅子に鎮座している。その人形の両脇には長い燭台があって、揺れる火がその人形の顔貌をありありと照りつけた。椅子と言ってもただの椅子なんかじゃなくて、玉座と思しき椅子だった。黄金を惜しみなく使ったのかと驚くくらい重量感と威光のある椅子は、けれども座する人形の神威には敵わない。言うなれば、そう、エジプトのファラオみたいな。日に焼けた褐色の肌は筋肉質に見えて、それには様々な宝石を嵌めた金の装飾がなされていた。白い服から伸びる肢体は男の子のそれと同じで、瞠目した私は店員さんに尋ねてみる。
「男の子なんですか?」
「うん。『彼』だけは特別なんだ。店頭の子たちとは違って、『彼』が持ち主を選び、『彼』だけには名前が付いている」
店員さんの言う「特別」に違和感はなく、「彼」は店で見たどの子よりも圧倒的に異質で、そして初めて会った私の何かを激しく掻き立てる。伏せられているその目を見てみたい。ごくりと唾を飲み込んだ。
「名前はなんて?」
「『彼』の名はアテム」
当然だが和名じゃない。名前まで一線を画す『彼』の存在に、私の中にある感情はますます膨張していくばかりだった。店員さんに教えられた『彼』の名前を呟いてみる。「アテム」と自身に馴染ませるように呟くとどうだろうか。呼応するように『彼』の長い睫毛がぴくりと動いた。それまで微動だにしなかったものだから、これには店員さんも「これは驚いたや」と目を瞬かせた。けれども一番驚いているのは私と思う。ゆっくりと持ち上げられた睫毛により、その奥に封されていた眼光は私にだけ注がれた。高い位置より見下ろす様は、動いたこと以上の衝撃を与え、視線が交わったというのに言葉ひとつ出せない。アテムの鋭い眼光に射抜かれて動けないでいる私の肩が揺れた。
「『彼』は自身が選んだ持ち主にしか懐かない。言い換えれば君以外には売れないんだよ。だから引き取ってほしいんだけど、どうかな」
「そ、そんな急に言われても」
「まあまあ。ご飯とかは店頭の子たちと変わらないし、何かあったらここに来れば教えるからさ」
「いくらなんですか?」
「ちょっと待ってね」
そう言って店員さんはメモ用紙を取り出し、電卓に頼ることもなくペン先を滑らせた。これほど高級感のある『彼』が十万を下らないと予想するが、どうだろう。太鼓を叩くような鼓動は、ペン先が紙から離された時に一瞬だけ止まった。
「諸費込みでこれくらい」
「なっ」
目を疑うとはこの事かと、生まれて初めて実感した。これじゃ給料日に買っても足りやしないじゃないか。
「大丈夫。当店では分割払いも扱っているから、最大これくらい安くなるよ」
「あ、ほんとだ。これなら私にもなんとか」
「じゃあ購入するってことでいい?」
確認するように再度見遣る。開かれた双眸は依然として私を見下ろし、玉座に腰を下ろす様から放たれる神威にはやはり身体の芯が震えてしまう。だけどその姿に心から「美しい」と思うのもほんとうだった。綺麗なんて二文字じゃ足りないくらい神々しく、その『彼』がこんな一般人を持ち主に選んだと言うのだから、これを逃してはいけないと全身が訴える。普段は用心深い脳もそう言うのだ、私は『彼』をどうしても手に入れたい。力強く頷いた。店員さんは満足気に笑んだ。
「お買い上げありがとうございます。末永く大切にしてあげてね」
「はい!」
こうしてプランツ・ドール、アテムとの、ちょっと風変わりでけれども好奇心が止まらない日常が幕を開けたのだった。