空を仰ぐために立ち止まったのはいつ以来だろう。夏の気配を感じさせる雨のせいで、雲ひとつない夜空を見るのは久しぶりかもしれない。夜も遅いこの時間の空はどっぷりと黒に染まって、まるで微生物のような星たちが皓々と点滅していた。初夏だというのに上着を脱ぐのは当分先のことになりそうだ。
「ご飯どうしようかな」
片手にぶら下げている買い物袋に目を遣って肩が落ちた。普段よく使う野菜や肉は買ったけど、夕飯の献立は決まっていない。今は好物を作る気にもなれなかった。食べることさえめんどくさい。再び空を見上げて溜息を吐いた。今日はご飯抜こうかな。一食くらい抜いても死にはしないし。
「めんどくさ」
深い溜息と共に肺を満たしていた鬱憤が体外へ出される。でもやっぱり胸の辺りはすっきりしない。もやもやしてたってしょうがないことだし、過ぎたことは悔しいかな訂正は効かない。あの時がどうであれ、今では拭いきれない過去に変わりないのだ。目を背けて前を見ても、それは一生付き纏ってくる。忌まわしいほどに。知らず知らずのうちに舌打ちがこぼれた。これ以上自責するのはやめよう、もっと嫌な気分になる。涼しい夜風で頭を冷やそうと思い足を踏み出した時、その声が耳に届いた。
「名前?」
振り返った先に立つ街灯に照らされていたのは、クラスメイトであり友人の遊戯だった。私服姿で私に手を振っている。
「夕飯の買い出し?」
「そうだよ。遊戯は?」
「僕はお遣いを頼まれたんだ」
「そっか。こんな時間に会うの初めてじゃない?」
「そう言われればそうだね。あっ、これから夜ご飯だよね? 呼び止めてごめん」
「気にしないで。献立決めてなかったし、それにそんなにお腹空いてないしね」
「そうなの?」
「うん。めんどくさいからすっぽかそうって考えてる」
「ご飯はちゃんと食べた方がいいと思う」
遊戯はそう言って苦笑する。釣られて私も笑っていた。不思議だ、あんなに苛立っていたのに遊戯と話すだけで気が和らぐ。悶々と考え込む脳に暖かな風が吹き込んだようだ。重苦しい気持ちが一掃されていく。ちょっとだけ気が楽になったように感じた。他愛ない会話を重ねていくと彼が躊躇いがちに尋ねてきた。
「今日なんかあったの?」
「え?」
「いや、朝から君の様子がどこか可笑しいから。何かあったんじゃないかって思ったんだ」
「顔に出てた?」
「ううん。気づいてるの多分僕だけだと思う」
誰にも気づかれないよう普段より細心の注意を払ってきたが、それが却って仇になるとは。しかもひとりとして気づかないほどの機微を悟るなんて、彼は見かけ以上に観察眼が鋭いのかもしれない。私は「そう」とだけ言って考えることにした。言うべきか隠すべきか。隠すよう取り繕ったら、彼は多分それ以上探ることはしないと思う。無いに等しい機微に気づく彼ならそうするだろう。でも、不思議と遊戯になら打ち明けてもいいんじゃないかと思えた。ずっと誰にも言ってこなかった自分の最大の黒歴史。完全に無かったことにしようと頑張ってきた、自分の最大の汚点とも言える過去のこと。私を友人と言って大切にしてくれる遊戯になら。買い物袋を握る手の平にじんわりと汗が噴き出る。
「誰にも言わないって約束してくれる?」
「当たり前じゃないか。絶対誰にも言わないって約束する」
「夢を見たんだよ」
「夢?」
「無かったことにしようと必死に目を逸らし続けてきた過去なんだ、その夢。今でこそ誰とでも話せるまでに外向的になった私だけど、前までは違ってたんだよ」
「うん」
「高校に来るまでの私ってほんとに暗かったの。隣席の奴とすら話したの片手に収まる程度。自分以外の誰にも興味がなかったから尚更。今じゃ顔も名前も声も思い出せない」
「うん」
「なのに、なのにね。言われたことはなんでかな、ちゃんと覚えちゃってるんだよね。私を、遠くから指を指して陰口を言い合う奴らの言葉が今でも頭から離れてくれない。言った奴らの顔まで忘れてるのに」
言いながらに今朝見た夢の一部始終が呼び起こされた。窓際に座っている自分。一冊の本を静かに読んでいる自分の耳に届くのは、奴らの蛮声だった。好きな本を読んでるのに意識は嫌でもそいつらに向いてしまう。聞こえてくる数々の心無い言葉たち。友人同士で言い合う語調はとても楽しげで、冗談めいてるものだけど、その言葉は私に関してのものだった。自分の一挙一動を殊更大きく取り立てて嗤いの種にする。そのせいか、それとも元々の性格だからかは解らないが、私は次第に口を開くことを憚るようになった。誰とも話したくないし、誰にも嗤われたくない。何かをするから注目される。なら何もせず、空気のように誰からの関心も受けたくない。私を見ないでほしいと、何度も思った。朝が来る度泣くほどに。
「中学時代全般が思い出したくない忌々しい過去なんだよ。なのに今朝、その一部始終が夢に出てきちゃって」
耳を塞いで縮こまるだけじゃこの先生きていけないから、遊戯たちに会うまでの自分をなかったことにしようと頑張ってきた。たとえ周りが敵だらけでも、自分だけは私の味方だって言い聞かせてあそこを乗り越えてきた。なのに今更思い出させるなんて。見たくないのに、いつまで過去に縛られなきゃならないんだろう。「でもね!」と言って笑ってみせる。
「最悪な夢のせいで疲れちゃっただけだから、遊戯が気に止める必要ないよ。何か言われたいわけじゃない。ただほんとに気が滅入っただけなんだ、明日には復活してるよ」
笑ってみせる都度胸が痛くなる。針で何度も何度も刺されるような痛みに思わず目頭が熱くなった。だけど人の前で泣きたくないから喉に力を入れて溜飲を下げる。真剣に話を聞いてくれた遊戯との間に静寂が流れる。反応しにくい話であることは重々承知しているからこそ、前言撤回したいほどの後悔に駆られた。やっぱり言うべきじゃなかったかもしれない。こんな話急にされても困るだけだ。私はまた選択肢を誤った。でも良い言い訳が思い付かないから口を開けない。後悔の念がじわじわと波及していく。重たい沈黙を遊戯が裂いた。
「ありがとう、僕に話してくれて」
「そ、そんな。礼を言うのはこっちだよ。こんな話聞いてくれてありがとう。ごめんね」
「ずっと誰にも言ってこなかった過去を、隠すこともできたのに君は打ち明けてくれた。きっと凄い勇気と覚悟がいることのはずなんだ。だから謝らないで」
手に汗握る私の内情を宥めるがごとき温かさだ。彼の元に人が集まる理由が解った気がする。優しい顔をしていた遊戯の眼差しが真剣味を帯びる。雰囲気が変わりぐっと喉に力が入った。
「僕と君は友達だよ。この先何があっても、たとえ君が後ろ指を指されたとしても、僕たちの仲は決して壊れない。辛い過去で悲しい気持ちになったように、泣いた分だけこれから幸せになれるよ」
「ほんと?」
「うん。だって名前は独りじゃないからね」
その言葉があまりにも真っ直ぐすぎるものだから、感情を堪えていた堰が気づけば決壊していた。滝のように流れる涙は顔の輪郭をなぞり落ちていく。さすがの遊戯も予想外の反応らしく、しきりに大丈夫かと気遣う声をかけられた。こんなにも嬉しものなのか。こんなにも温かいものなのか。純粋に心配してくれる彼は、私を独りではないと言ってくれた。何があっても友人だと。弱々しく頼りない手で涙を必死に拭う。私はほんとうに良い友人を持ったようだ。ありがとう、遊戯。君に会えてほんとうに良かった。