春告鳥の鶯舌が響き渡る公園に、肌寒さを孕んだ風が葉擦れを引き起こす。日が昇って時間が浅いとはいってももうすぐ春が来るのに、黎明のこの時はやはり寒い。日中のように服一枚だけとはいかないようだ。歓声に賑わう公園が寝静まる中、私は視界にかかった髪を耳にかけて冷たい空気に息を吐き出した。
「どうしたの? こんな時間に呼び出して」
「ああ」
眼前に佇む彼は短く言って口を噤んだ。けれども私から視線は逸らさない。いつも見かけている青い学ラン姿じゃない、私服姿の彼。初めて見るわけじゃないけどこの時間帯に顔を合わせるのは初めてで、実はさっきから気が落ち着かないでいたりする。手を揉んで暖を取る。でもやっぱり熱はすぐに冷気に溶けてしまった。手袋してくるんだったと乾燥した手を見て後悔した。再び訪れた沈黙の末、私がそれを破く。
「ちょっと散歩する?」
「いいのか」
「少しだけなら大丈夫だよ。遊戯は?」
「俺も大丈夫だ」
「なら行こ」
このままじゃ三歩後ろを着いてきそうな遊戯を見て、私は彼の手を引いた。力が完全に抜けきっていた彼の手は意図も容易く拐うことができた。何か言いたそうな顔をしていたようだが、私は何を言うでもなく手を繋いで公園を後にした。海のように深い濃紺が広がる寒空にふたりの靴音が響く。アスファルトを踏み締めながら歩くのは遊歩道。いつもは散歩コースで人の姿が途切れることのない道だけど、朝が早い今となれば、まるで私たち以外誰も知らない秘境の地のように神秘的で、どこか寂しい雰囲気を漂わせている。緑生い茂る樹木のベールを潜り冷たい空気を肺へ送り込む。いつもやってることだけど今日はいつもの何倍も空気の冷たさが鼻に効いた。鼻の奥が痛くなって思わず目頭が熱くなる。
「やっぱまだ寒いね」
「だがもうすぐ暖かくなる。上着なんて必要ないくらいにな」
「暑いのも苦手なんだよね。体力に自信ないから」
「飯を食って体力つけないとな」
「程々に頑張るよ」
遊戯の助言はたまに口が酸っぱくなる。過干渉しないからこそたまに出る正論に、苦々しくも納得させられてしまうのだ。遊戯だってハンバーガー食べてるのに。なんて言い返しても飄々と交わしてしまうんだろうな、彼なら。それから、何か特別な会話があるわけでもなく、敷き詰められた道をそれぞれのペースで、でもどっちかを置いて行かない足取りで歩く。繋がれた手はそのままに。長い長い遊歩道に終わりはまだ来ない。だけど足早に歩きたいとも思わなかった。たとえ帰るのが遅くなって親に叱られる未来を見据えていたとしても、この手の温かさを失う方が親に叱られるよりずっと怖い。喉にぐっと力が入る。逆流してくるものを力一杯に飲み干した。すると、なんの前触れもなく私の手から彼の指がこぼれ落ちていった。急激に冷えていく手に引かれて振り返る。一歩後ろに遊戯は立ち止まっていた。私を見て。
「話さないといけないことがある」
そよぐ風にも揺るがない強い眼差し。どくん、と心臓が大きな波を打って、夢想に片足を踏み込んでいる脳に冷水をかけた。足の裏から猛烈に何かが這い上がってくる。耳を抑えたい衝動に駆られた。両耳を隠し、縮こまりたい。駄々をこねる子供のように頑迷に聞きたくないと、強く思った。だけどそれをさせないのが彼の目だ。逃げることも拒むこともできないほどに私を真っ直ぐ捉えていて、逃げたいと思う心とは裏腹に、私の目は遊戯を同じように見つめてしまっている。
「別れよう」
心臓が止まったんじゃないかと錯覚した。それかこれは私が見ている悪い夢だと思った。明日テストあったし、それに対する不安が見せる悪夢なんだと飲み込もうとした。だけどそれをさせてくれないというように、彼が待ったをかけずに口を開く。
「俺はもうじき居なくなる。だから別れてほしい」
「居なくなる、って?」
破裂寸前の肺が絞り出したか細い声に、彼は少し間を置いてゆっくり首を横に振った。
「理由は言えない」
「私を信用してないから?」
「そうじゃないんだ、お前への信用が揺らいだことなど一度もない。だが理由は言えないんだ。すまない」
「そっか」
遊戯が私に嘘を吐くなんて思えない。当たり前だ、彼が私を信じてくれるように、私も彼を心から信じている。子供騙しのような嘘も人を故意に傷つける嘘も言わない。そんなこと、恋人以前に友人だった私が一番解ってる。そんな彼だから好きになったんだ。その彼がはっきり私には言えないと断言した。縋っても、泣いても、彼は真実を語ってはくれないだろう。それも脳が理解している。でもそれ以上に。
「いつかね、こんな日が来るんじゃないかって思ってたんだよ」
勘とも言うし予想とも言える代物で、非常に曖昧なものだ。日に日に憂いを帯びていく表情。何かを焦がれているような視線。それは私と居る時も変わることはなかった。話しかけても返答がないことも多く、学校でも、クラスが違うってだけで会話すらままならない。明らかに豹変する彼を見ていれば、否が応でも悟ってしまうのだ。何かがすれ違ってしまったんだと。そしてそれはもう直せないんだと。
「だって私、遊戯に最後に名前呼ばれたの一ヶ月以上前だもん」
ほんとうは今すぐにも問い質したいし、私に直せるものがあるなら直したいって思ってる。強く、強く。でもそれは独り善がりでしかない。彼の中には梃子でも動かない固い決意があるのだから。そりゃ私の気持ちだけじゃ動かせないわけだ。喉元を押し上げる様々な気持ちはやがて涙となり両の眼から止めどなく溢れる。激流に飲まれまいと手で押し返しても暖簾に腕押し。むしろ逆効果で、勢いはさらに増した。彼の前では泣きたくない。最後まで笑っていたい。なのに涙は出てくるばかり。ごめん、と震え声で謝れば代わりに目元に指が添えられた。滂沱に流れる涙を親指の腹で拭ってくれる。戸惑いながらも拭う様は世辞にも器用とは言えない。そして耳に届く、彼の声が呼ぶ私の名前。ああ、久しぶりだな、遊戯に呼んでもらえるの。春告鳥が運ぶ暖かさに慣れるのに、私にはまだ時間が必要なようだ。