アイシスから小耳に挟んだ程度の話によれば、誰かに懸想する女は眩しく見えるそうだ。確固たる証拠はないが、同様な経験を多くの人がしたことがあるらしい。今の俺を海馬が見たら失望したと言いかねないが、これだけは自分の力ではどうにもできない。今まさにその現象に遭っているのだから。
「名前は、誰か好きな奴が居るのか?」
「えっ!?」
急な質問に彼女はたじろいだ。驚いた拍子に手に持っていた花を池に落としてしまう。彼女はうんともいいえとも言わず言葉を探っている。羞恥が顔に出る反応を見て、投げかけた質問を反省した。確かに易々と口外できるような事でもない。撤回しようと口を開いた。
「今のは忘れ」
「い、居ますよ、好きな方」
俺が言うよりも早く彼女は肯定する。熟した果実のように赤く染め上げられた頬と、小さな動物みたいに縮こまる動作。籠から放たれた鳥のように活発な彼女では考えられない様子に、今度はこちらが言葉を探るはめになってしまった。けれどもそんな彼女が、何よりも眩しく見える。天上に輝く太陽よりも眩しく、献上される数々の黄金よりも目を惹かれる自分を、確かに感じていた。
「どんな奴なんだ?」
「とても優しい方であらせられます。魔術の才覚にも長けており、お強いですよ」
「ゲームはするのか?」
「はい。腕っ節を誇示することはありませんが、ひとたび対峙すれば子供であっても全力で戦う方です」
「そいつと対戦してみたいぜ。宮殿の中に居るのか?」
「そ、そうですね。宮殿内でよくお話します」
宮殿内で彼女とよく話す人物は、知る限りで両手の指を優に凌駕する。誰にでも心より礼節を以て接する彼女は、神官団の皆からも好ましく思われている。俺もその一員だ。故に数を絞るのは苦行を極める。けれども宮殿内でゲームをする者はかなり限られてくる。良き対戦相手となるセトやたまに付き合ってくれるマハードくらいだろうか。それ以外となるとさすがに解らないが。魔術を扱うならマハードの弟子のひとりだろうか? いや、だがあいつからゲームが強い弟子が居るなんて聞いたことがない。あいつなら居たとしても自発的に言うとは思えんが。だとしたらやはりマハードの弟子の誰かだろうか。思考の渦に囚われてしまった俺の意識を引き上げたのは、隣で動いた布摺れの音だった。
「アイシス様に呼ばれているので、そろそろお暇させていただきたいと存じます。ファラオ」
「そういえばそうだったな。何か教えてもらうのか?」
池の淵にしゃがみ込んでいた彼女はすっと立ち上がり、膝に着いた砂を払う。彼女は俺を見てにっこりとした笑みを浮かべた。
「秘密です!」
失礼しますねと言い残して去っていく。誰も居なくなった中庭からしばらく動けなかった。固まる俺の脳に浮かんでいるのは先程見せられた彼女の笑顔で。歯を隠すことなく見せて笑む様に、心臓が大きな脈動を打った。誰かが言っていた。懸想する女は眩しいと。ほんとうだ。その眩しさは目を貫き脳にまで焼き付けられる。これほど彼女の笑顔に焼かれたことはなく、己の中から湧き上がる熱に初めて苦しいと感じた。