死ネタ注意。後味の悪い結末となっています。





馬鹿で愚かしいひとりの女が居た。そいつと出会ったのは世捨て人のみが辿り着くという、誰からも忌避される洞窟の中だった。異教の国から着の身着のままでやってきた女。広大な砂漠を微々たる水と現地人の教えだけを頼りにこの国へ来たと言う。全く興味なかったが、女は澄み切った眼で本を大切そうに抱えるものだから、暇潰しと称して身の上話に付き合ってやることにした。何しに来たかと聞けば、なんと女は真面目な顔をして「苦しんでる人を助けに来た」と言ったのだ。あの時ほど腹を痛めて嗤ったことはないだろう。砂漠の強風如きで折れそうな身体で一体何を助けるんだと思った。権力者でもなく、学者でもなく、神でもない。継ぎ接ぎだらけの麻布に身を包んだ女だ。そんな奴に何ができ、何をするつもりか聞いてみた。女は顔色ひとつ変えず、凛然とした声音で返す。

「人格は環境で作られる。冷たい環境で育てば咎人に、優しい環境で育てば善良になれる。でしたら私は人々が善良の道を進められるよう導きたいのです」

なんと愚直で子供じみた考えか。現実に生きる奴のセリフじゃねえな。鼻で一蹴しても女は怯まない。お優しい思想の元はその本か。女が胸元に抱く一冊の本は、見るからして読めたものじゃないと理解する。表紙は傷だらけで、束ねられた紙は今にも散らばりそうだ。おまけに紙は虫食いだらけときた。もはや本としての機能すら果たさないそれはただの紙くずでしかない。そんな物を女は我が子のように胸に抱き、偶像のように敬っている。古びた本は推測だが聖書か何かだろう。ご大層な詭弁にやられた口か。解れば女に興味は尽きた。元よりここに留まる理由などなく、女の妄想癖に付き合う趣味もない。そろそろ戻るか。そう思い立って岩壁に預けた背中を離す。すると女は言った。

「神は如何なる人間も見ていらっしゃる。咎人も善良な人も。たとえ現世が苦しく辛いものであっても、善良であろうとする心だけは捨ててはなりません」

「何が言いたい」

「盗みを働いて、それで貴方は満たされるのですか?」

「図に乗るなよ女。俺は暇潰しにお前の話を聞いていただけだ。洗脳なら他所でやれ」

「罪を重ねればいくら神が寛容とは言え、残酷な制裁を下しざるを得ない。数々の悪逆が貴方の身を災禍となって苦しめるでしょう」

「へえ、で?」

「今すぐにでも神を崇拝しろとは言いません。けれどその行いを辞めることはできるはずです」

「っは! んとうにくだらねえな。お前の思想も、言葉も、その眼差しも。この俺を止めようとするならたとえ神であっても倒してみせる! 誰も俺を止められねえんだよ」

「貴方は善導に背き、悪道を進むのですね」

「だからどうしたよ」

「いいえ」

岩壁にもたれて座り込む女は、やがてそっと瞼を伏せた。この女の戯言を聞いていると内側が妙に掻き立てられる。こんなにも居心地が悪いと思ったのは初めてだ。苦々しい気持ちが充満することに苛立ちを感じ、俺は早々に発つことを決心した。女を殺そうかとも思ったがそれすらも疎ましく、一秒でも早く女を視界から消したい気持ちがあったのでやめとくことにした。光射す出口に一歩踏み出せば、後ろから女が言葉を投げてくる。

「神はあらゆる艱難辛苦に喘ぐ人間を見守っています。その手を掴もうとする人間を決して見放したりなどしない。貴方はひとりではないのです。努々、お忘れなきよう」

俺はそれ以上何か言うでもなく立ち去った。それからと言うもの、俺は二度とあの洞窟に姿を現すことはしなかった。たとえ野垂れ死にしてようと、拐かされようと俺の知ったことではない。あの女のことだ、人間の暗部に触れても尚善導だの神だのと説くだろう。運良く洗脳されれば女は無事を確保できる。安い夢物語で口説くことを奸詐しているならどこでも食っていけるだろう。女の声も姿も靄がかかり始めた頃だった。俺はもう一度そいつのことを思い出させられる。土埃が舞う、殺伐とした砂の世界。風に吹かれて動くのは生きている俺だけだ。ごうごうと嘆き声に似た、吹き抜ける音が響き渡る。中から風が吹いて俺の髪をかきあげた。歩き出せば靴の音が反響し、陽の光に慣れた瞳は一瞬闇に眩む。けれど闇に慣れれば視界は良好。訪れた地は在りし日の洞窟だった。太陽が大地を照らしていてもこの洞窟内は薄暗く、蛇の大群でも住み着いていそうなくらい生暖かい。ぽつ、ぽつ、とどこからともなく水滴が岩を打つ音が聞こえてくる。ここに来ることは後生一度もないと思っていた。苦々しい気持ちがこびりついたこの地に足を踏み入れることおろか、周囲にすら寄りたくないとさえ。舌打ちを零せば倍の音量となって返ってきた。風の噂で女が死んだことを知った。その最期は皮肉なもので、村中の人から嫌われていた罪人を匿い、結局はそいつに殺されたようだ。一時の激情を晴らそうとしていたのか、それとも持て余した熱を晴そうとしていたのかは本人のみぞ知るところだが、いずれにせよ暴行を加えられ焼かれた事実には変わりない。

「『人格は環境が作る』、ねえ」

嗤笑さえ出てこない。俺に見下されても怯まなかった女は、己が助けた者の欲によって殺された。そうだ、女は死んだのだ。いくら立派な思想があったとしても所詮は綺麗事。人の持つどうしようもない欲までも制することはできない。女は人を救いたいという欲があり、男は自身の熱を発散させたい欲があった。汚れを受け付けない欲は、どこまでも汚い欲に呑まれてしまった。安らぎへ導く? っは! 笑わせるね。女、お前もひとりの人間なんだよ。権力者の持つ欲となんら変わりない欲を持つ人間なんだ。お前は助けた奴に負けた敗北者だぜ。俺にあれほど息巻いていたくせに呆気なく殺されやがって。くだらねえ思想なんざ抱くから殺されるんだ。見返りがない救済をしようとするからこうなる。ほんとうに馬鹿な女だった。

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