暑い、暑すぎる。自分の身体は今にもチーズのように溶け出す瞬前だった。暑い暑いと呻く私の前を歩くのはひとりの男の子。さすがは現地人と言うべきか、彼はこの炎天下を長く歩いても歩幅に淀みはなく、苦言のひとつも呈さない。歳上の威厳など微塵もなく、今は彼の持久力が水と同等に欲しかった。

「ねえーまだー?」

「あと少しで着くぜ」

「ほんとに道順解る? さっきからどこかしこも同じ景色のように見えるんだけど」

「合ってるさ」

「そう」

ならいいんだけど。男の子にこれ以上言及するのは悪いと思って黙ることにした。喋ると気力と体内の水分まで口から抜け出しそうだ。観光目的で降り立ったエジプトで迷って一時間弱。かれこれ三十分前ほどに眼前の男の子が迷子になって意気消沈の私を拾ってくれた。最初は男の子の格好にたいそう驚いたものだ。今でも慣れないけど。例えるならそう、古代エジプト人がしそうな格好をしているのだ。短い白い服と至るところに金のアクセサリー。量産型の店頭に並ぶ金を用いているのだろうか? けれど相手の形に突っ込んでいられる精神力はなく、帰り道を教えてくれると言った親切な男の子に着いていくことを決心した。初対面を信じるなって言うけどあの状態で誰も信用しなかったら餓死の一途を歩むところだ。

「そういえばさー」

「なんだ?」

「君って名前なんて言うの?」

先を歩く彼に届くよう大きめな声を出せば、彼は歩みを止めて振り返る。向こうも同じ声量で返してくれた。

「アテムだ」

「へえ、アテムくんか。若いのにしっかりしてるね、お姉さん感激」

「実年齢はお前よりも上だけどな」

「そっかそっかぁ」

十五、六歳の背格好のどこに二十歳の要素を見い出せるんだろう。少年はよく見栄を張りたがるとも言うしその類なんだろう、きっと。ようやく距離を詰めた私はアテムくんの隣を歩きながら周囲を見渡す。視界の全貌を埋め尽くすのは砂色の砂漠だけ。見上げれば真っ青な空が広がっている。風と共に砂も舞う。広大な砂漠をアテムくんは迷わず進めるなんて精神年齢は確かに私よりも上だ。彼なしでひとりで歩けなんて言われても一歩も進めない。前を歩いているのか後ろを歩いているのか、北か南かさえ解らないのだから、取り残されたら私は絶対泣く。

「アテムくんってここら辺に住んでるの?」

「まあな」

「凄いねー。砂漠で遊んだりする?」

「砂で遊びはしないが、用意されたゲームはするぜ」

「そうなんだ。あっ! 見て見て!」

砂の世界を歩いていれば、視界の先に揺れる建造物の輪郭を発見した。まだまだ遠いから蜃気楼のように揺らめいているけど、それは隣のアテムくんも認知したから多分蜃気楼じゃないと思う。見えたか、とも言っていたのでアテムくんはここに連れてきたかったのだろう。逸る気持ちは歩幅を大きくさせ、遥か先で揺らめく建物にあっという間に着いてしまった。

「でっか!」

「はしゃぎすぎだ。初めて見るのか?」

「うん。こういう建物は初めて見るから気分が上がる。でもこの建物、何で作られてるんだろう? 見たことない素材を用いてるのかな」

眼前の建物を三百六十五度見渡しても素材は閃かない。鉄や木材でないことは一目瞭然だが、煉瓦にしてはやけに土色だ。あいにく私は建築物に詳しくないため思い浮かぶ素材はこれくらいしかない。どこぞの神殿のように堂々と構える門と両脇に鎮座する犬のような動物。スフィンクスを彷彿とさせるがそれとは顔貌が違いすぎる。じゃあこの二匹はなんだろう? 私の興味は両脇の像と同じように目の前の門にも注がれた。写真のフレームみたいに太い支柱が天井の枠を支えており、それにはびっしりと絵文字が描かれている。描かれてというより彫られている。

「これってヒエログリフってヤツ?」

歴史は門外漢だけどこの絵文字はさすがに知っている。教科書や文献でも見たことのある文字だ。書籍でしか見たことのない文字をリアルで見られるだなんて。こんなに堂々と建っているのに何故誰もこれに脚光を浴びせないんだろう? 歴史的価値がないからだろうか。黙って見入る私の耳に堪らず笑った声が聞こえてきた。はっと我に戻れば肩を竦めて笑うアテムに向き直る。

「あ、ごめん。夢中になりすぎちゃった」

「いや、いい。好きなだけ見てくれて構わない」

「アテムくん太っ腹! ねえ、この建物っていつからあるの? なんで誰も知らないんだろ? 人っ子ひとり居ないし」

言って、誰も居ないことに気づく。アテムくんと私以外誰の姿もないのだ。大人も子供も、動物すらも。砂漠って蠍の生息地って聞いてるけど道中出くわしたことはない。この建造物だけが建つ砂漠の世界に迷い込んだみたいだ。それは有り得ないか。ちゃんと太陽は動いてるしそもそもそんなファンタジーな話は現実に起こらない。

「ねね、これって写真撮っても大丈夫なヤツ?」

「ああ」

「やったー! ありがとう」

こんな機会は滅多にないことだから、尚更シャッターを切る指が止まらない。色んな角度から何枚も写真を撮る。青い空が建物を荘厳に、そして神秘的に照らしあげる。これってもしかして私が第一発見者になったりするんじゃ? と思ったが、アテムくんがここを知ってるんじゃそれは有り得ないか。残念じゃないといえば嘘になるが、まあ仕方ない。スクロールしなければ昨日の写真に戻れないほど撮ったところで携帯を鞄にしまいこんだ。

「もういいのか?」

「うん、何十枚も撮ったから大丈夫」

「そうか」

帰ったら友人にも見せてあげよう。ほくほく顔で満足していたら、アテムくんが門を指さした。

「これを潜ればお前が居た所に帰れる」

「え、でも」

指さした方向に顔を向けてもそこには吹き抜けの門があるだけで、それ以外はない。門の先に見えるのは進んできた道と変わらない砂漠が広がっている。なのにここを潜れば帰れるとはどういうことだろう。

「俺を信じろ」

子供だと思っていたアテムくんの強い眼差しを見て、それ以上は何も言えなかった。親切にここまで案内してくれたんだし信用してもいいかもしれない。

「解ったよ。てことはアテムくんともここでお別れ?」

「そうなるな」

「そっか。ここまで案内してくれてありがとね。短い間だったけど楽しかったよ」

「久しぶりに自由に散策できて俺としてもいい気分転換になった」

「そうだ!」

「なんだ?」

「もし、また会えたら今度は市街地案内してよ。あとは私が住む日本にもおいで。お姉さんが心ゆくまで案内するからさ!」

実に良い提案であることに喜色として話せば、アテムくんは鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くして驚いていた。そんなに驚くことを言ったつもりはないが、それを聞く前に彼はふっと小さく失笑する。なんとなくだけど、その姿がどこか大人っぽく見えた。

「会えたらな」

そんなに難しいことなのだろうか? エジプトに住んでることは知ったし、今日みたいにあの場所に来れば会えると思うんだけど。そう思っても言葉にするのははばかられた。そろそろ時間だ、帰らないと。ホテルのチェックインに間に合わなくなる。名残惜しい気持ちは尽きないけれどいつまでもここに留まることはできない。アテムくんと握手した手をそっと離す。

「じゃあ私、行くね」

「ああ。今度は迷わないようにな」

「さすがにもう迷わないって。じゃあまたね、アテムくん」

手を大きく振って、両脇に鎮座する像の間を潜る。すると突風が吹き荒び私は思わず目を瞑った。悪天候になったようにしばらく荒れていた風は、やがてゆっくりと収まりを見せていく。なんだったんだろうと訝しがりながらも目を開けようとしたが、それは途中で止められた。声がする。無人の砂漠に聞いたことのある声が。それは迷う前まで居たエジプトのとある繁華街の賑わう声だった。堪らずぱっと目を見開く。そこに広がっていたのは私が居た繁華街で間違いなかった。

「え、嘘!?」

驚くのは当然のこと。門を潜る前までは繁華街なんてなかったのだから。これは一体どういうことだろう、一緒に居るだろうアテムくんに聞こうと潜った門を振り返る。けれどもそこにあったのは軒を連ねる商店と住民の姿だけだった。天高くそびえ建つ門なんてどこにもなく、アテムくんの姿すらもなかった。ついさっきまでここに居たのに。可笑しいと思いながら辺りを見回すが、何も情報は得られない。嘘だ、こんなのって。しどろもどろな手つきで携帯を取り出す。私はあの時ちゃんと撮ったんだ、あの門を。ディスプレイを爪で弾いて写真フォルダを開く。

「え?」

証拠に縋りつく私を蹴落としたのは、昨日撮った写真が最新のものとして映し出された写真フォルダだった。あれほど撮った門は一枚も残されておらず、削除された欄にも残っていなかった。

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