漆黒の闇がそこには広がっていた。落ちてしまったが最後、二度と日の目を浴びれないような、底が知れないほどの深い闇。それは静かに佇み、圧倒的な存在感と畏怖を私に与える。その闇をはるかな高みにて俯瞰する私は、夜明け前の冷えに身体を震わした。
「ねえヨハン。寒いんだけど」
唇を動かしたくない、というより動くだけマシと言える寒さだ。全身をぶつける寒さに耐えきれず膝を折って背中を丸める。じゃり、と土を踏む音がした。空は当たり前だけど真っ暗で、この場所には私と、ここに連れて来た本人のヨハンしか居なくてとても静か。在りし日の異世界のように、今度は私とヨハンだけが別世界に迷いこんでしまったのではないかと錯覚してしまう。それはそれで楽しいのかもしれないなんて、ちょっぴり思ってしまった。
「寒いよー、風邪引く」
「そのために厚着してきたんじゃないか」
「冬の早朝の海の寒さなんて耐えられるわけないじゃん!」
声を大にして言っても、ヨハンは「あと少しだから我慢しろって。家帰ったらスープ作ってあげるからさ。な?」と、物分りが悪い子供に言い諭す口振りで宥めてくる。私は聞かん坊な子供か! そう反論してやりたかったが、どうせ何言っても暖簾に腕押しで躱されると解ったので、大人しくおのれの保温活動に勤しむことにした。暖を取るべく手を擦り合わせ温い息を吹き掛ける。一瞬暖かくなったものの、海の潮風に一掃されてしまった。太陽すら起きぬ早朝のうちからヨハンに叩き起され、微睡む私を引っ張りながらも気づけばふたりして身支度を済ませていた。そんなこんなで半ば連行される形で海の上の崖に訪れたというわけである。日が差さないので辺りは一面の暗闇に包まれ、私の隣に居るヨハンの表情さえ窺えない。脚に伝わる安心感から地形的な心配はないしそこは大丈夫なんだが、ヨハンのことだからどうせ眼をきらっきら輝かせてるんだろうな。
「ねえ、ヨハン」
「あと数分だから我慢してくれよ」
「そっちじゃない」
「どうした?」
「手、繋いで。寒い」
息を吹きかけても指はかじかんだまま。焚き火も熾していないから、熱が切実に恋しくなった。
「おう、いいぜ」
言って、地面に垂らした手のひらに熱を閉じこめるように彼の手が重ねられる。どっしりとした大きな手。フリルとか付けてんのに、こういうところで不意打ちを食らってしまってときめいてしまうのを抑えられない。彼の肩に頭を預けて遠くを見遣る。太陽が照らさないでも解る。そこには際限なく伸びる海が広がっていることが。今は静かだけど、この海は時には荒ぶる猛獣のように咆哮を上げ、災害をもたらし、まるで果実を押し潰すように人の命を食らっていく。私は理不尽に恐怖する。現実に臆病になる。この手を失ってしまうんじゃないかとたまに不安になってしまう。手を握ったまま頭を横へ倒すと、簡単に彼の肩に乗った。
「寝るなよ?」
「寝られないよ、ここじゃ」
冗談交じりに返してほっと息を吐く。瞼を伏せる。辺りは静寂そのもので、時折吹く潮風に葉が擦れる音が滑り込むくらい。ちょっと臭い磯の匂いを微かな風が運んでくる。指を搦めて繋ぐ手から、凪いだ海のような彼の鼓動が伝わってきて、つい意識を手放しそうになる。何も考えずにヨハンの心臓の律動に聞き耽っていた私を、彼の声が揺さぶった。
「おーい、名前ー」
「んぅ……?」
「起きたな。見ろよ」
繋いでいない方の手で肩を叩かれ瞼を上げる。深い闇の帳に一点の暖かな光が点る。水平線の彼方から産声をあげるように伸ばしていき、それまで混じりっけのない暗闇が柔らかなオレンジ色と溶け合って、絵の具でも精巧には表せないような色彩を放つ。見上げた空は濃紺を水で掃かれたように薄くなっていて、空に浮遊する雲の影を捉えた。空が徐々に明るくなるにつれ、それまで静かに横たわっていた海が、太陽の粒子を水面で反射して煌めかせる。それはまるで水面で小粒のダイヤが躍っているよう。命が芽吹き、息をするその瞬間に立ち会えて、私は言葉を発することもしばらく頭から抜け落ちていた。眼前の美しい光景に意識を独占されている私の鼓膜を、明朗な笑い声が叩く。その時ようやく自我を取り戻す。
「見れて良かっただろ?」
屈託なく笑うヨハンの白い歯を、潮風になびく青い髪を、生命力に溢れた情熱的な双眸を、オレンジ色の日差しが柔く照らし上げる。私は胸の内に湧き上がる色んな感情を押し込めるように、繋がれた彼の手を今一度ぎゅうっと強く握り返した。