かみさまのほんね


珍しく気が乗ったので登校した。見慣れた並木道を通り学校へと向かうのだが、はて、こんなにも人通りが少ない場所だっただろうか。いつもは車も人も往来しており、こんなふうに鳥の鳴き声など聞こえない。全く違う場所にでも来てしまったかと錯覚するほどの変貌に首を傾げつつも、とりあえず学校へ行ってみる。そして気づいた。道理であれほど閑散としていたわけだ。学校の敷地を取り囲む門の中から一直線に伸びた時計塔。それは授業が始まる時間よりもうんと早い時刻を示していた。

「ま、いいか」

早く来すぎたとはいっても門は開いてるし教室で寝て過ごそう。無人のグラウンドを横目で矯めつ眇めつ下駄箱へ向かう。靴を履き替え自教室の扉に指をかける。その動作に重なるようにして一瞬、胸中が淀んだ。ほんの一瞬、秒数で言えば一秒かそこら。針先でちょんと突くような予感だったが、何故それが唐突に去来したかはすぐにわかることだった。

「おはよう」

扉を開けた先、窓に面した列の最後尾にある席に座っていた人物。開放された窓から冷ややかな風が入り、こちらを見つめる人物の長い髪を軽く撫でる。視界にかかったんだろうその髪を細い指が押さえつけ、未だ動かない私に柔和な微笑みを見せた。整えられた微笑だと思った。針先で突く程度の負の感情が、確信を得たことで明確な嫌悪に変わり、はっきりと帰りたいと声を出した。彼がいるんだと知っていたらそもそも登校しなかったのに。

「入らないの?」

私の嫌悪など知るところだろうに、彼はそれでも柔和な微笑みを変えず言葉を投げる。帰りたくなった。とてつもなく帰りたい。不承不承と座った自分の席からぐるりと教室を見渡しても、無の空間にいきなり人は生えない。二人きりという現実がどうにも嫌だった。いつも利用している図書室が開くのはまだまだ先。誰かが来るまでは、嫌でも彼と同じ空間にいるしかない。もぞりと腹の中で獣が駄々を捏ねた。刹那、肩越しに笑みを零すのが聞こえた。釣られて振り返ると、彼は自身の口元に指を宛てがい上品に肩を揺らしていた。笑っている様に不思議と怒りは起こらず、ただただ疑問が埋めつくす。不快感は否めないが。

「わかりやすいね、きみは」

「……どうも」

無愛想を振りまいても彼はただ美しく微笑むのであった。居心地の悪さに耐えかねて席を立つ。

「もう帰るのかい?」

驚いたらしい声音に「屋上行くだけ」と返してしまう。しまった、無視すればよかった。図らずも彼に接してしまった失態に内心悔いると、彼は「今日天気いいからね」と同調してくる。扉に手をかけたところで。

「ねえ」

一言。彼のその一言が、動作も思考も止めてしまう。彼は言う。今日も言う。

「今度の試合、見に来てね」

視線が引き寄せられてしまう。最後尾の席に座る彼は、私を見て。

「待ってるから」

目元を細めて、笑って見せた。背筋をなぞる感覚が汗なのか寒気なのか、恐怖なのか嫌悪なのか、自分にはわからなかった。ただ一つ。彼はうそつきだ。待っていないくせに。底を気取られぬ深い目から逃げたくて、扉を閉めた。



 授業も終わり放課後。ぞろぞろと生徒が教室を出て行く。ものの数分で教室も廊下もしんと静まり返り、入り込む斜陽が校舎内を赤く照らし上げ、影を伸ばしていく。どこからともなくカラスの声が響いてきた。夕暮れ時にカラス。いかにもな組み合わせだ。下駄箱へ行き靴を履き替える。上履きから運動靴へ。整えてから学校を後にした。通学路はいつも見てる景色が広がっていた。公園で遊ぶ小学生の声声、帰宅する車の走行音、日が入った午後の空気。五感で得る情報はすべて馴染み深いもの。こつ、こつ、と踵を鳴らして帰路を進んだところで異端を発見する。忙しなく応酬される人の声に気づき、ふと何気なくやった視線の先で彼を見つけた。建物の壁に背中を預けて立つ彼の前には、見知らぬ男性が一人。呆れているのか、目蓋を閉じて男性の言葉に何も返さない彼。男性は無反応を決め込む彼に、尚も必死に絡んでいる。驚いた。こんな場所で彼を見つけることも、知らない第三者に絡まれて泰然といられることも、いつもいる彼の取り巻きが一人もいないことも。思いもしない光景なので見続けていてしまうと、彼の目蓋がやおら持ち上げられた。

「――!」

苦手な目が私を見た。深い色の目が何か言ってくる。わからない、わかりたくもない。脳内で鳴る警鐘が「関わったらだめだ」と言ってくる。逃げよう。逃げてしまえばいい。自分には関係ないことなのだ、彼とて私を責めやしないだろう。靴底が転がる小石を踏んで道路を擦る。つ、と額から垂れた汗。ごくりと固唾を飲んで逃げの体勢をとる。こんな私を見ている彼は何を考えてるんだろうか。失望?怒り?きっと、どれも違う。彼の考えてることなんて私にはわかりっこない。迫り来る圧迫感に呼吸の道が狭まる。なんで私を見るの。やめて。その目に映さないで。見ないで。感情が錯綜し頭が混乱する。私は彼が苦手だ。何を考えてるかわからない、言ってることが嘘かほんとうかわからない、でも平気で嘘を吐くような彼が、私はいっとう苦手だ。なのにどうしてか彼は私に関わってくる。彼は私じゃないんだ、私の考えや気持ちなんてとっくに見通してるだろうに、関わってくる。そんなところも苦手意識に拍車をかける要因だ。喉がひくついて言葉が出ない。すると、彼は均一に結ばれた唇に、ほんの僅かな笑みを乗せた。男性すら気づかないほど薄い笑み。

「……っ」

気づけば彼と男性との間に割り込んでいた。突如割って入った私に男性は目を丸くし、持ちうる限りの敵意で睨み返す私に不機嫌を顕著にする。ああだこうだ感情に任せて口走る男性は、動じない私に気を削がれたのか、一通り叫んで不承不承と背中を見せた。往来の彼方へと消えていったところで背後から笑い声が沸いた。何が面白いんだと睨めつける私に、彼はさして反省したようには見えない面持ちで「ごめん」と言う。

「来るとは思わなくてね」

その言い分は間違ってない。事実知らぬ振りしようとした。逃げようとした。彼が挑発するような、こちらの出方を試すような笑みを浮かべていなければ、逃げたかもしれない。割り込んだ理由は正直自分でも判明しない。あの笑みを挑発と受け取ったことに関してもそうだ。どうして自分の目にああ映ってしまったのか。私には試されるほどの価値なんかないだろうに。唐突に、自分の右手が浮遊する。彼に持ち上げられているのだと遅れて気づく。自分のより白く細い指たちが、しなだれるように私の指と絡まる。ぴったりと合わさった手のひらは私より若干大きかった。体温は感じない。温かさも、冷たさも。わけがわからず解こうとした私に彼は言う。

「でも、待っていたよ」

そんなことを、いつものように、さらりと。しかし、いつもと違った点はその言葉を嘘を感じなかったところ。何も言えない私の手を、彼は殊更強く握りしめた。
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