狛枝凪斗とお風呂
白濁している湯の張った浴槽に、人間二人が伸び伸びと手足を伸ばして休める広さは無い。
肌に触れる自分のものではないすべすべとした感触と、視界に広がる細い髪。
「普通は逆じゃないのかな」
「んー……逆?」
「女の子が後ろなのはあんまり聞かないと思うんだけど」
私の両足の間に丸まっている狛枝が、お湯から出た私の膝を軽く叩く。水滴が跳ねて音を立てた。
「文句あるの?」
「昔からこうだもんね。……今更」
「まあ、狛枝がデカくなったせいでちょっときついけど。昔はお風呂も広かったのに」
ふわふわと視界の中で揺れる髪に息を吹きかけると、鬱陶しい様子で頭を振る狛枝。
このクセのある髪は、昔から変わっていないくせに。白い背中に触れると、ごつごつとしていた。
「あーあ……あんなに柔らかかった身体が今では骨みたいになって」
「骨って」
「つまらないなあ。顔ももっと丸かったでしょ」
背後から手を回し、すらりとした輪郭をなぞってみる。くすぐったそうにして手を止めようと上げられた腕は、諦めたようにまた湯船に沈んでいく。
自分よりは広くなってしまった背中に体重を預けてもたれかかる。首元に顔を埋めて、狛枝のお腹に腕を回して縛るように両手の指を絡めた。
「コテージのお風呂って狭いよ」
「本来は一人用だろうから仕方無いと思うけど。……あのねたまこ、文句言うくらいなら自分のコテージのお風呂に、一人で入ればいいんじゃないかな」
「狛枝が久々に入りたそうな顔してたから入って上げてるの」
「……はいはい」
無理やり理由を狛枝のせいにしてみても、狛枝は呆れたように二回返事をしただけだった。
こういう所は成長してる。
「狛枝、幸福量保存の法則って知ってる?」
「どこから考えてきたの、そんな法則」
「図書館で本漁ってたらそう言う本が出てきただけ」
ふぅん、とつまらなさそうに声を出した狛枝は、まだ明るい窓の外を見つめた。
聞く気のない態度で聞く準備は整った様子。毎回、狛枝の考える事はわかりにくい。
「人類に訪れる幸せと不幸せの量は決まってて、それを足すとゼロになるって感じ……だったかも」
「覚えてないの?」
「文字が多くて読んでる途中で寝たの」
「なるほど」
ありえる、なんて頷いた狛枝のお腹に軽く爪を立ててみる。
眉を顰めた狛枝は、私の手に自分の手を重ねた。固定されて動かせないようになる。
「今狛枝に不幸な事が起こったから、今誰かに幸せな事が起こった」
「なにそれ」
「狛枝の場合は、不幸が起こるとその次には幸福が訪れるんだっけ」
「うん……まあ。ボクに幸福が訪れる代わりに、他の誰かに不幸が訪れるかもしれないけど」
「厄介だよね。言っておくけど、私には不幸なんていらないから」
「そんなのボクに言われてもどうしようもないよ。それに、ボクのせいで起こる不運は慣れっこでしょ」
さらりと言いのけた狛枝を睨みつける。おかげで昔から生傷が絶えないのだ、一応女の子なのに。
厄介だと思いながらも、昔から狛枝の近くにいて離れない私の自業自得でもあるが。
綺麗な狛枝の肌は見ていると妬けてくる。男のくせに、女の自分より白くて綺麗な肌だから。
「虚しい……」
「って言うたまこを、ボクが慰めてあげてた」
「あー……って言うか、その後には毎回不幸が起こってたよね、あれ。……偶然?」
「きっと多分偶然」
「何なのそれ、狛枝の事未だに理解できない。幼馴染なのに」
聞けば素直に答えてくれるものの、表情から思考を読み取ることは昔から困難だった。
狛枝の気持ちは頑張って汲み取ってみても、上手く理解することは出来ない。
言葉が難しいというより、難解な思考回路を読み解くのは余程ではない限り無理だ。
「こうやって何度もお風呂に入ってるんだけどな。ボクは……たまこのことかなり理解できてるつもり」
「ずるい、せこい、こすい。勝手に理解すんな」
「……いろいろ複雑だよね」
「どういう意味?」
「さあ」
私には分からないと思って、わざと理解できないような返答をする狛枝はあざとい。
段々と冷えてきた湯船の中で、狛枝とぴったりくっついて何の意味もなく面白いわけでもないやり取りを繰り返す。
あんまり長く入っていると、お母さんがそろそろ出なさいって怒りにくるんだ。それに気の抜けた返事をして、狛枝と一緒に上がって、ご飯を食べて……。
「大丈夫?」
「……ん」
「抱き着いたまま寝ると風邪引くから、上がりたいんだけど」
「あー……うん。ごめんごめん」
解放された手を浴槽の縁に置いて力を入れる。立ち上がった拍子に狛枝に水滴が飛んで、どうやら目の中に入ったらしい。
短く痛感の意を示した狛枝はゆっくりと湯船から立ち上がって外へと出てきた。
「ちょっと、のぼせてるかも」
「たまこが出ようとしないから」
「狛枝が出たくなさそうにしてたからです」
「はいはい……」
同じようなやり取りを繰り返して脱衣所へと戻ると、狛枝が大きくてふかふかなタオルを頭から被せてくる。
途端に暗くなった視界にふらりと足元がおぼつかなくなると、狛枝が支えてくれる。
両の手首を跡がつかないように気を遣った握り方をして、私をすっぽりと包んでいるタオルを少し持ち上げて私の顔を覗き込む。
「うん?」
「おーい。起きてる?」
「起きているように見える?」
「きちんと喋れてる時点でバッチリだけどね。ちょっと待っててよ。ボクもこのままじゃ床が水浸しになるから」
「うーい」
言わずとも理解をしてくれて、乱暴に自身の髪や体についた水滴を拭いていく狛枝。
改めて見ると、狛枝は本当に成長していた。この島に来たとき、久しぶりに見た狛枝の背が伸びていたこと、声変わりを経て低くどこか色気のある声になっていたこと、色々なことに驚かされている。
大方拭き終えて服を着た狛枝が、再び私に向き直る。
タオルを持って、髪を拭いていく。さっきまでの乱暴な拭き方ではない所に、少しだけ何かが動く。
「……こら、ちゃんと立ってくれないと拭きにくいんだけど」
「やー」
「わがままは変わってないよね……」
湿った手のまま、狛枝に巻き付いた私を軽く叱った狛枝。引き離すなどしようとしない狛枝は、子供相手にするような口調で言葉を紡いでいく。
狛枝の服が湿って、その箇所が肌に張り付く。少しだけ気持ち悪い感触でありながらも、たった一枚布を挟んだ奥にある狛枝の温かい肌が心地良くも感じる。
「あんまりモタモタしてると日向くんたちに見られると思うよ」
「誰が好き好んで狛枝のコテージなんて覗くの」
「それもそうだね」
眠くて段々と朦朧としていく意識で軽口を叩く。苦笑した狛枝は、私の服をとると順に着せていく。
こうしていると、押し付けたのは自分であっても狛枝の着せ替え人形にでもなった気分になる。
「ほら、終わり。髪がまだ湿ってるから、後から乾かすよ」
「狛枝も濡れてる」
「キミのことあまり長く放ってると風邪引くでしょ。流石に女の子を裸のまま放置して風邪引かせるなんてできないよ」
「うさんくさ」
「本心なのに」
それはなんとなくわからなくもない。
脱衣所から出ると、狛枝の部屋には橙掛かった陽が差し込んでいた。
また長いこと風呂場に留まっていたと思い知らされる。
「今日は早く眠れそうだね」
「今にでも?」
「レストランで花村クンがご飯を作ってくれるでしょ」
「そうだ、ご飯。レストラン行く」
今からでもご飯が待ち遠しい。髪が濡れたまま狛枝のコテージを出て行こうとする私を引っ捕らえた狛枝が、慌ててドライヤーの電源を入れる。
冗談なのに。
「まだここに居なきゃ」
「義務的」
「……まだ、ここにいて欲しい?」
「疑問系」
不満げに口を尖らせて細々と注文をする私の髪に、細い指を絡ませて梳く。
ドライヤーの風が頬や首に当たって、耳元でタオルがばさばさと音を立てるのを聞くと、本気で眠くなってくる。
やがてドライヤーの電源を切った狛枝は、そこから立ち上がり私の髪の水滴を吸って湿ったタオルを洗濯機に放り込む。
待ってましたとばかりに立ち上がってレストランに向かおうとする私に背後から駆け寄ってくると、少し苦しいくらいに抱き着いてくる。
「うー……」
「これでこの一週間頑張れるね」
「ん? んー」
よくわけのわからない励ましを聞いたような。
理解出来ないまま頷くと、狛枝は私の手を引いてコテージのドアを開けた。