ガチャガチャと錠の鳴る音がしてふわりと意識が浮上した。きっとカシムが帰ってきたのだろうな、とは思いつつ、布団の温もりが優しくて、そこから這い出すことはおろか、瞼を開くことさえできないでいる。最近めっきり寒くなって、なかなか夜勤から帰ってくるカシムを出迎えられていない。夏は陽が昇るのがはやく、また寒くもないので布団にさほど未練を残さずに、カシムを迎えてやれていたのに。おかえり、と絶対にカシムには届かない事なんてわかりつつも胸中で告げた。ただいま、と勝手に返してもらった気になって、一人、満足しながらぺしゃんこの枕に頬を擦り付けた。





おら、起きろ、と布団を剥ぎ、腕を引っ張られる。ぐにゃぐにゃと力の入っていないオレの身体は、カシムが引き上げた力そのままに起き上がる。

「おはよう」
「飯あんぞ」
「おーありがと」

スン、と空気を吸い込むと、ひんやりとした冷気が体内に入り込んだ。もう一度スン、と空気を吸い込むと、なるほど確かに卵のいい匂いが部屋に満ちていることに気がつく。

「飯なに」
「お子様なアリババくんのためにオムライス」
「やりぃ」

顔洗ってこいよ、とカシムが言うので、短く返事をして洗面台に足を向ける。水で顔を洗うべきか、お湯にするべきかを真剣に考えて、まだ水でいいかと蛇口をひねった。手でお椀を作って水を受け止めるとジン、と手のひらに痛みが走る。やっぱりお湯にすればよかった。ちょっとだけ後悔しつつ、パシャパシャと顔を洗っているとカシムが「おせぇぞ!」とオレを怒鳴りつけた。





「お前、顔洗うだけでどんだけ時間くってんだよ」
「いやぁ、水かお湯かどっちにしようかと思って」
「湯にしたって、温まるまで待てねぇで水のまま洗うんだから。どっちだって一緒だろ」
「オレは待つけど」
「ふぅん。アリババ、ケチャップとってこい」

ひどくどうでも良さそうにカシムが言う。オレとしても、もう水かお湯かだなんてどうだっていいので、「ん」とだけ答えてケチャップを取りに行く。

「ケチャップどこ? 冷蔵庫ないんだけど」
「あ? あー戸棚見ろ。新しいのがあるはずだから」

いつもであれば、冷蔵庫の中に横倒しになっているはずのケチャップが見当たらなかったので、カシムに聞いてみる。冷蔵庫の中はケチャップどころかバターしか入っていなかった。戸棚を開けてみるとカシムの言う通り、新品のケチャップがあったので、そのままカシムのもとへ持って行く。

「開けてこいよ」
「冷蔵庫なんもなかったんだけど」
「使い切った」
「晩飯どうすんだよ」
「鍋食いたい」
「そうじゃねぇんだけど」
「食うぞ」

カシムの一言で短い論争は打ち切られた。いただきます、と声を揃えて唱える。あふ、とカシムがあくびをした。眠いの? だなんて馬鹿な事を聞こうとしてやめる。そりゃあ、眠いだろう。カシムは働いて帰ってきたあとで、オレは寝て起きたばかりなのだ。カシムが目をしぱしぱとさせながらケチャップの封を切る。また、ふわあ、と声をあげてあくびをするので、オレは心配になってカシムの手からケチャップを奪いとった。

「なにすんだ」
「オレがケチャップかけてやろうと思って」
「いらねー……」
「まあまあ」

折角だからなにか書いてやろうと思い、ケチャップを持ち直す。ポリエチレンの容器がグニ、と曲がったのにカシムが眉をひそめた。もちろん、そんなことは気にもせず、何にしようかと考える。けれど、こういう時は大抵なにも浮かばない。ちょっとだけ悔しく思えたオレは「これはきっと寝起きだからだ」と誰にともなく弁解をする。こういう時、スタンダードなのは、好き、とか、おつかれさま、とかそんな言葉なのだろうか。ただ、好きと書くときっとカシムは怒るだろうし(カシムはオレに好きと言われるといつも眉間に皺をよせ、口をひん曲げて苦々しそうな表情をする)、おつかれさま、だとかは、書かない方がいい気がした。どうしようかと考えているうちにカシムがゆらゆらと横に揺れ出した。あ、眠いんだな、とか。そんな当たり前のことをまた実感する。これ以上待たせるわけにもいかないだろう。オレは、ええいままよとカシムのオムライスにケチャップをかけた。


――結果、書きあがった文字を見て、カシムが頓狂な声をあげた。

「……んだこれ」
「名前」
「馬鹿だろ」
「なんも浮かばなかったんだよ」
「馬鹿だろ」

黄色い卵に赤色のケチャップででかでかと書かれた「アリババ」の四文字にカシムは冷めた視線を投げる。

「お前の食うみたいで食いずれぇんだけど」

なんて、口では言いながら、カシムはスプーンを取って真ん中からオムライスを食べ始めた。アリババと書かれた文字を少しだけ掬って口に運ぶ。

「まあ、味かわんねーからいいけど。おら、お前もとっとと食え」
「……カシムがオレ食ってる」
「お前が書いたんだろうが」
「どう、オレうまい?」

カシムが「アリババ」と書かかれたオムライスを食べているのが思った以上にうれしくてにやにやしながら聞いてやると、カシムは呆れたように溜息一つよこして、オレの手からケチャップを奪い去る。オレの目の前にあるまだなにも書かれていない綺麗なオムライスをグイ、と引き寄せてその上にケチャップをぶちまけた。

「カシム、なにこれ」
「名前」
「なにこれ」
「名前」

カシムが書いたのは「カシム」という三文字だ。でかでかとオムライスの上で存在感を際立たせている。ケチャップの蓋をしっかりとしめて机においたカシムは満足そうだった。

「オレのオムライスはうまそうだろ」
「カシム、だいぶ眠いだろ」
「まあな、気がすんだらはやく食え」
「はーい、いただきます」

カシムがしっし、とおよそ飯を食えというにはふさわしくない手癖でオレを急かすので、スプーンを手にしてオムライスの端を崩していく。カシムの文字を少しだけ掬うのも忘れない。

「うめぇだろ」
「おう」

たしかにオムライスは上手かった。晩御飯はカシムのリクエスト通り鍋にするしかないだろう。

「おい、アリババ」

黙々とオムライスを口に運んでいると、ふいにカシムがオレを呼んだ。

「なに……」

オムライスからカシムへと視線を移すとカシムがニイ、と笑っていた。えらくご機嫌な様子のカシムはオレの後頭部を一撫でしたかと思うと、そのままグッ、と引き寄せる。かと思えば、ちゅ、と可愛らしいリップ音とともに唇があわせられた。

「なにすんだよ」
「アリババ、共食いしてやんの」

にやにや、カシムにしてはちょっと邪気なく笑うものだから、お前だって共食いだろ、という無粋な言葉は飲み込んだ。

「鍋、期待してろよ」
「買い物行くとき起こせ」
「いいよ、寝てろよ」
「今日、休みなんだよ。お前も休みだろ」

ちょっと寝てから行くぞ、起こせよ。言うだけ言って、カシムは立ち上がる。オムライスはもう平らげたらしい。

「なに鍋がいい?」
「期待してる」

その言い方は少しずるい。空っぽの皿を片手に台所へ消えたカシムは、ご機嫌だった。今なら「好き」と言っても怒られないだろうか。

「カシム、好きだよ」
「はいはい、俺も」

ふわふわとした声が返ってくる。きっとカシムは眠いんだろうなあ、だなんて、当たり前のことをまた考える。だから、あんな風に返してくれたのだろう。

「おやすみ」

一言告げて寝室へと消えたカシムに「おやすみ」と返す。オレもオムライスをはやく平らげよう。すべて食べてしまったらカシムの布団に入り込んでやるのだ。一緒に寝て、起きたら「おはよう」という前に「好きだよ」と言ってやろう。カシムは先程のように返してくれるだろうか。俺もだと言ってくれるだろうか。もしかしたら何も聞こえなかったふりで「おはよう」と返すかもしれない。それでも、まあ、別にかまいはしない。勝手に「俺も」と返してもらった気になっておいてやろう。オムライスはもう半分くらい残っている。カシムと書かれたそれはとても美味しかった。





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