知らないんだろうなあ、と思う。知っていたら逆に怖いけれど。でもこの時ばかりは”そういう可能性”を少しくらい考えてくれてもいいんじゃないかと思うのだ。

「砂月、おいで」

ふわふわとした表情で紡ぐ言葉は自信よりも優しさにあふれていた。慈しむような音は陽だまりの中で眠る猫を見つけた時のような気持ちを思い起こさせる。

その声に僕はわざとしかめっ面をして、いかにも渋々ですよ、しょうがないから行ってあげるんですよ、という雰囲気で歩み寄る。本当は緩みそうな頬を強張らせて、垂れそうな目じりを釣り上げて。そうでもしないと、僕はレンくんの柔らかな声を耳にすることさえ許されないのだ。

「まったく、砂月はいつもいつも素直じゃないね。嬉しいくせに、かわいそうな子」

そう言ってのろのろと歩く僕の手を引いて抱き締める。「少しはシノミーを見習いなよ、すごく素直なんだから」と甘く言われて、その言葉の先にいるのは砂月だとわかっていても嬉しくて、すごく悲しかった。

手紙を残した。もう一人の自分に。いつもいつもぷっつりと切れた記憶の後にはレンくんがいて、お茶をいれてくれたり、優しく髪を撫ぜてくれていて、レンくんの傍らにいることが幸せに感じるのも遅くなかった。オレンジの髪は彼の暖かさを表しているようでどこに居てもきょろきょろとオレンジ色を探すようになった。真っ暗な記憶の淵から這い出すときに手を伸ばすようになった。

砂月という存在がいると知ってから翔ちゃんにいろいろ聞いた。僕のことを知ってる?どう思ってる?どんな子?聞くと、翔ちゃんは気が進まなさそうにしながらも答えてくれた。お前のことは知ってるし、お前の時の記憶もあるし、お前のことが大事でしょうがない奴で、でもどうしようもない奴だと。話を聞いてから幾日か考えて、考えて、手紙を書いた。

レンくんとの時間だけでいいので僕に下さい。レンくんとの時間にどれだけ傷ついても悲しくなってもいいからあの暖かな存在を僕に下さい。

手紙を書いて数日、返事はなかったけれど変化があった。ぷっつりと切れた記憶がまたスッと開く。ラジオのザッピングみたいだと思う。きょろきょろとあたりを見回せば、コンタクトレンズの箱と眼鏡が見えた。視界は良好、至ってクリーン。どうして眼鏡が外されていて、コンタクトレンズが装着されているかわからなかったけれど、手紙を書いて起きた変化ではあった。いきなりの変化に不安になって、どうしてどうしてと考える、ぐらぐら揺れて倒れそうな僕は、とりあえず眼鏡に変えようと思い至る。少しでも同じポテンシャルに戻そうと努力して、そうして記憶はまたぷっつりと切れたのだった。

起きたら朝、コンタクトレンズの箱はそのまま、こめかみに指をあてるとフレームの冷たい感触がした。ホッ、と息をついてコンタクトレンズの箱を見やる。きっともう一人の僕が用意したもの。捨てるのも悪いような気がして迷っていると、箱の下にメモ用紙が挟まっていた。

お前の身体なんだから好きに使え。ただお前が眼鏡外すと俺にかわるから、コンタクト使ってみた。コンタクトだったらお前意識あっただろ。でも眼鏡してねぇと、他の奴らは砂月って認識すると思う。ひでぇ態度とかとられても、それは、お前にじゃねぇから。

乱暴な字で書かれた言葉たちは全力で僕を気遣っていた。僕はこの人から暖かい存在を奪ってしまうのかという気持ちと、これで僕は幸せになれるのだろうかという気持ちが綯交ぜになって襲ってきて少しだけ泣きたくなった。とにかくわかったことはコンタクトレンズは試練だということ。うまく入れられるか不安に思いながら、でも入れる時眼鏡外すよね、と気がついた。僕はもう一人の自分に頼り切りだ。

「砂月」

甘い声がする。優しく髪を撫ぜてくれる。那月だった時とは比べられないくらいの熱は、熱いくらいで、レンは砂月が好きなのだろうとあたりがついた。そのおかげで、僕はレンが好きなのだろうと思い当って、なんだか泣いてしまいそうだった。視界は良好。悲しさと嬉しさがごちゃごちゃのぐちゃぐちゃで、でも手放したくないという意地が僕の精神を保っている。

「俺に好きなんかじゃなくて大切だって言わせるのはお前くらいなのに」

レンの声がふわふわとしている。優しい優しい声音。陽だまりでまどろむ猫。ああ、それと、それと。あの乱暴な字の置き手紙。

声は出さない。出せやしない。口を開いたら最期、「ごめんね」と言ってしまいそうだから。途切れない記憶は良好、でもそれだけ。本当にそれだけだ。たまらなく幸せなのに、どうしようもなく悲しい。満ち足りては乾いていく。なにもないのと同じだった。もっと、と求めなければただ暖かいだけでいられたのだろうか。落ちない精神、抜けない記憶はぬるま湯で溺死をするように僕の息を細くしていった。




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -