誰でも一度は王様に憧れる。お金持ちで、みんなから好かれていて、慕われていて、愛されていて、この世でただ一人のなにか。不特定多数の唯一になり得る、特別な存在。そんなものになってみたいと思うこどもは多い。羨ましいと思う人も多い。影の苦労はあるのだろうけれど、それ以上に富と名誉と地位が目映い。きっと、それが、世界がおもう王様のすがただ。

かくいう私もその一人だった。王様になりたい。王様になって素敵なくらしがしたい。私の国の王様はシンドバッドという男だった。南国のフルーツみたいな賑やかな雰囲気をもっている彼は、瞳だけは切れ長で刃物のようだった。女が好きなようで夜の町をよくよくゆったりと歩いている。私が彼をはじめて見たのは言葉もふたしかなとても幼い頃だった。彼はまだこの国をつくっている途中だったとおもう。表情の端々に疲れがみえていた。シンドバッドは私の母の店にきて、グラスのなか、たった一杯のお酒をひどく気だるげに飲み干したあとにテーブルに突っ伏して寝息をたてた。そんなことが、毎夜続いていたようにおもう。

国がまとまり、使者が増え、街が栄えだし、夜のお店も増えたころ、彼はあまり店に顔を出すことはなくなっていた。母は人気が過ぎるのも大変なことだわ、と笑っていた。

私が母の店を手伝うようになった頃に、シンドバッドが店へと訪ねてきた。国の行事で顔を見ることもあったから久しぶりであるという印象は受けなかった。彼は昔ににじませていた疲れや弱さのようなものをすべて硬い皮膚のなかに覆い隠してにっこりと笑っていた。店の扉の前で座り込んでいた私を見つけると、やはり南国のフルーツみたいな賑やかさをまとって声をかけてくる。

「やあ。きれいになった」
「こんばんは、シンドバッド王」

今夜はお付きの方はご一緒でないのですね、といいかけてやめた。でしゃばりすぎるものでもないし、どうしても知りたいわけでもなかった。彼は私の肩を軽く叩いて、邪魔するよというと店の中へと入っていった。すぐに追いかけるのもなんだか変な感じがしたから、私は100まで数えてから店にはいる。彼はどうやらカーテンにしきられた奥の席にいるのだろう、すがたを見ることはできなかった。

日付が変わって二時間はたった頃。私は店の掃除をしていた。グラスを下げ、テーブルを拭いて床をはく、簡単な作業だ。あともう少しでおわるというころにぴっちりと閉められたカーテンの奥から母が私を呼ぶ声がした。

近づいて、そっとカーテンを開けると、王さまが初めてみたときの同じようにテーブルに突っ伏して眠っていた。母はそんな王さまに自身が羽織っていたショールをかけてやると静かな声で「水を持ってきてほしい」といった。私はひとつ頷いてキッチンに向かう。グラスにたった一杯の水を汲みに。

ちゃぷちゃぷと揺れる水面に気を付けながら母のもとへと戻ると母は王さまを優しく揺り起こした。

「おはようございます、シンドバッド王」

まるで起こす気なんてまったくないような声量だったのに、意外にも彼はすぐに目を覚ました。目の前に差し出されたグラスをみて、ひどく気だるげに上半身を持ち上げると、グラスに手を伸ばしてゆっくりと飲む。

「お疲れのところごめんなさいね」
「いいや、」

王さまの表情はさらりとしたものだった。陶磁器のようにひんやりとしていそうな面持ちで、なんにも寄せ付けない声で、気にしなくていいという。

「疲れるとか、そんなこと関係ないんだよ。オレがオレであるかぎり、関係ないんだ」

呟いて、王さまはグラスの水を全部胃におさめてしまうと、まるでゴブレットでも返杯するかのようにグラスを掲げ、恭しく一礼してからテーブルに戻した。そうしてようやっと、今さらのように私に意識を向けた彼は、もういつもの王さまだった。

「やあ。おはよう、みっともないところをみせたね」
「おはようございます、シンドバッド王」

南国のフルーツ。みずみずしさすら感じる声と、すべてを覆う硬い皮膚だ。

「水は君が?ありがとう」
「いいえ、飲み過ぎには気を付けてくださいね」
「耳がいたいよ」

王さま、シンドバッド王よ。もし、さっきのグラスに私が毒を溶かしていたらどうなさるおつもりだったんですか。それが毒の杯でもあなたは恭しく礼をしてしまうのかしら。

昔の私はあなたとあなたの暮らしに憧れた。あなたの眩しさに憧れた。世界でひとり、唯一のあなたが羨ましかった。けれど今では不思議とそうは思えない。私はあなたに毒の杯をあげたい。それであなたがシンドバッドでなくなるのなら、王でなくなるのなら、なにかが楽になるのなら、あなたが死んでしまえるのなら。

柔らかなショールではなく、たった一杯の毒をあげたい。



/毒杯を君に


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