ちいさな頃は教えられたことを覚えたままでいられる子供が世界で一番賢くて正しくて、ゆるぎない正義だった。たとえば、これは黄色と教えられたのならばその色は黄色。これは「あいうえお」だと教えられたのならばその文字は「あいうえお」で、一と一を足せば二になると教えられたのならば一足す一は四でも五でもなく二が正しい。とにかく、大人が教えるあれこれや決まった物事をまったく違わずそっくりそのまま覚えて忘れない、ということが子供には大切なことだった。そうすればもちろん学校のテストはいい点ばかりで、親や教師もたいそう喜び、口々に「いい子ね」と言って笑った。だから古橋は生まれてからずっといい子だった。教えられたことを忘れず、もちろん変に組み替えたりもせず、そっくりそのまま記憶したし、テストでもいい点を取り続けたし、正しいことは正しく、間違ったことは間違いだと記憶していた。花宮真に会うまでは。

高校生になっても古橋は昔と変わらず正しく賢くあり続けていた。けれど、彼に出会ってからというもののそれがどうにも難しくなった。あんまりにも花宮真という人間がちぐはぐだったものだから、古橋の「正しい」は酸に溶かされた物質のように変化した。花宮は嘘のかたまりのような男だったけれど嘘をつくときはけして冗談にはしなかったし、完璧主義のきらいがあったものだから間違ったことをするためにどこまでも正しい手順を踏んだ。さらに彼は今まで古橋がしていた「教えられたことをそっくり覚えて忘れない」ということを古橋よりも忠実に行っていたし、その記憶の量たるや古橋とは比べるまでもなかった。そればっかりが理由ではないのかもしれないが、一言で言えば古橋は花宮真にオチた。古橋自身は花宮真に傾倒どころではなく沈むように絡めとられたことをどう感じていたのかは明言できないけれど。

ある時、原が喉だけで笑って言った。「古橋のあれってさあ、宗教に近いよね」と。古橋は原の言葉を否定せずに「たしかに近いものがあるな」とだけ返した。その頃の古橋はもう常識というものが曖昧になっていて、今まで覚えて忘れずにいたいろいろなこと(たとえば人を傷つけてはいけませんよ、とか、悪口をいってはいけませんよ、という類いのもの)などは言葉の通じない見知らぬ土地の標識とさして変わらぬ価値しかなかった。その標識に「立入禁止」や「この先危険」と書かれていても古橋にはぼんやりとしか理解ができないように、昔に覚えたアレソレが古橋にはひどくぼんやりとしたものになっていた。ならばなにが明確なのかと問われたら花宮のルールだった。宗教に爪先から頭のてっぺんまで浸かった人間がどんなとんでもないことを要求されたとしてもなんの疑問もなく事にうつしてしまうように、古橋は花宮がいうルールや要求をなにひとつ疑わずに実行することができた。逆らう理由が見当たらなかったのもあるし、古橋のなかでは花宮の一言がルールで、法律で、すなわち正義に結び付いていた。

ある時、山崎が眉をしかめて言った。「恋にしちゃおぞましい」と。古橋は心なしか山崎の表情を真似て「恋も愛も教わるものではなかったからよくわからない」と返した。山崎は古橋の返答にちょっとばかり驚いたようでぱちぱちと目を瞬いた。「教えられなきゃわかんねーの」とからかうような、それでいて真面目な声に古橋は「教えられたことしかわからないのは当たり前のことだろう」と言った。そんな話をした一週間後、原が恋愛小説を何冊か寄越してきた。情緒は教わるんじゃなくて育てるもんだよとにやにや笑われたのはいささか不愉快ではあったものの、渡された恋愛小説を突き返すことはしなかった。

小説の中身はずいぶんと淡いものだった。恋愛というのだから感情の話ばかりで、形のないソレは曖昧で抽象的で、古橋の情緒はまったく育つ気配がなかった。原から借りた恋愛小説は全部で三冊で、二冊読み終えた今、とてもうんざりしていた。どうでもいいことをつらつらと並べ立てられている。そんな風にしか感じられなかった。三冊目を読まずに返すか悩んで、やっぱり読んでから返そうと手を伸ばす。三冊目もほかの二つとさしてかわらず下らない。しかし物語も終盤というところで古橋はフム、と頷いた。「恋というのは自分の一番大切なものをあげたってかまわないと思えること」それならたしかに古橋は花宮に恋をしていた。

恋をしていると自覚してから、古橋はとにかく花宮になにかをあげたくなった。要求以外にもなにかを花宮にしてやりたかった。花宮は古橋に特になにかを求めたことはなかったのでそれは叶うことはなく、じりじりと焦れったい気持ちだけを募らせていた。幾ばくかして、与えたい気持ちが落ち着いてきたころ、今度は花宮からなにかを貰いたくなった。できれば、できることならば花宮の一番大切なものが欲しかった。欲しがるようになってからは自分の一番大切なものはなにかを考えた。それから花宮の一番大切なものがなにかも。ただ古橋は「大切なもの」とはなにかを教えてもらった記憶などなく、一向に答えにありつくことができなかった。

天啓ではなく、なんでもないよくある道徳の授業だった。小学校でも中学校でもよくよく聞かされた「人を傷つけてはいけませんよ」という話を馬鹿馬鹿しくも一時間かけて聞かされた。教師もまたつまらなさそうに話をして、最後に一言、命は大切にしましょう、と締めくくった。古橋は号令にならって腰をきれいに折りながら考える。生きているものならば命が一番大切なのでは、と。

思い至ってからははやかった。ざわざわと騒がしくなる自身の教室を出て、古橋は花宮の教室へと向かった。すぐ隣なのでさして時間はかからない。無遠慮に扉を開けてなかに入る。視線だけで花宮を探せば、彼はせっせと黒板をきれいにしていた。

「花宮」

声をかければ、にっこりと猫を被ったままの表情でこちらを見る。ちょっと待ってくれる?といつもよりも高めの声で告げると、すこしだけ急いだそぶりでまた黒板に書き散らかされた白い字を消していく。すべての文字が消えたあと、花宮はちらりと自分の席を見やる。古橋もつられるように視線を追うと花宮の席には知らない男が座っていて、これまた知らない誰かと話していた。その様子に花宮は一つ息を吐いて窓際に身を落ち着けた。

「ごめんね、お待たせ。それで、なにかな古橋くん」
「オレの命を渡すから、花宮のものをオレにくれないか」

古橋は単刀直入に切り出した。花宮は演技だろう、すこしだけ肩をゆらし、目を丸くしてみせる。それから一拍おいてくすくすと笑った。

「あいかわらず、いきなりビックリするようなこと言うよね」
「驚かせたのならすまない」
「別にいいんだけど、どうしてそんな話になったの」
「花宮に大事なものをあげたくて、花宮の大事なものが欲しくなった」
「それだけ?」
「そうだ」

言い切ると、花宮は演技ではない笑い方で、演技ではない口調で「いーけど?」と答えた。だから。古橋はたまらず花宮に抱きついた。

──だって相思相愛だ!

花宮が「わ、」と声をあげる。古橋の両足の踵が浮いて、爪先が完全に床から離れる。ガシャン、と大きな音が鳴って身体が空に投げ出された。古橋はどうしようもなく高揚していた。浮遊感を感じながら身を捩ればくるりと古橋と花宮の位置が変わる。生憎抱きついているせいで花宮の表情は窺えないけれどさっぱりと澄んだ青空が視界いっぱいに広がった。割れた窓の奥から聞こえる言葉にもなっていない叫び声が古橋には祝福を意味する歓声のように感じられた。古橋の身体は歓喜し、充足感が血管を駆け巡る。身体がまるごとすべて心臓になったみたいに脈を打つ。恋が、与えたいと思うことか、欲しいと思うことが、古橋の望むものが、こんなにも軽やかに叶えられた。

この瞬間を、古橋は死んでも忘れず覚えたままでいるんだろう。






「花宮にとったらさあ、飼い犬に手を噛まれたって感じかな」
「まさかブッ飛ぶとは思わねーよなあ」

原と山崎が甘ったるいシェイクを飲みながらしみじみと呟く。渋い緑茶が似合う声音だった。瀬戸は安っぽいエスプレッソを一口すするとうーん、と唸る。

「オレには飼い犬に手を噛まれたとか、ましてや愛や恋や宗教とかなんかじゃなくて、よっぽど古橋がガキだったんだとしか思えない」

瀬戸の言葉に原が意外そうに肩をすくめる。ストローの先を指先で弾きながらつまらなさそうな声で瀬戸に「ガキって?」と促せば、瀬戸は面倒くさそうな表情を隠しもしないで言った。

「あれもこれも知らない知らないなんでなんでの子供だったじゃん、古橋は」
「それでも古橋は恋のつもりだったのかもよ」

山崎がゾッとしねえな、と呟く。恋も地獄も宗教も落ちるって意味では一緒だね、と原が笑った。瀬戸はエスプレッソを一口に含むと声には出さずに呟いた。

拝啓 花宮、心中お察しいたします。



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