彼の合宿は、結果としてリタイアで終わった。

部長は古賀がすることになったけれど、みんななにも言わなかったのは一年生ウェルカムレースのときに手嶋が言った「実力主義の世界だ、仕方がない」との言葉が脳から喉からへばりついて声を出す邪魔をしたからだった。実力主義の世界で彼はただ弱かった。それだけの話であった。

合宿から戻って、補講を受けて部活をする。そんな日が四日間続いていた。部長ではなくなったし、インハイメンバーにもなれない彼の愛車はちゃんとまだ部室の隅にあった。ただあるだけではなくて、彼はみんなが気がつかない間に整備をして、愛車で走り、気がつかないうちにもとの位置に繋いであった。姿は見えなかったけれど部活に参加していることはわかる程度。青八木がしきりに手嶋の愛車を気にして、繋がれているときは辺りを見回して手嶋を探して、愛車がないときは、手嶋が帰ってこないかと部室の入り口をにらんでいた。もちろん、青八木が手嶋を待つ間、手嶋がみんなの前に姿を表すことはなかった。

インハイを二週間前に控えた頃。手嶋の面影は部室から一切の姿を消した。合宿が終わってからと言うもの、思い返せば部室以外でも彼の姿を見ることがなかった。彼の愛車があった場所はぽっかりと空いていて、違和感が強い。

青八木が彼の愛車があった場所をうろうろとする。まるで主人の墓を探す犬のようだった。

「一人でも走れるんだろう」

古賀が乾いた声で言った。

「うるさい」

雨垂れのような声で青八木が返した。古賀はひょいと肩をすくめる。それがまた、手嶋のような動作だったものだから、青八木の瞳がぎらつく。しかし、青八木はなにも吐き捨てることはせずにギシリと歯を噛み、軋ませて、部室をあとにした。ひょい。古賀はまた肩をすくめたが、古賀を睨み付けるものはいなかった。

部室をあとにした青八木が向かったのは裏門だった。合宿前に、彼がここを一人で登っていたのを知っていた。先に帰れと笑いながらいう彼を心配そうに見ていたら、額を小突かれ、しぶしぶ帰ったのはもう記憶に遠い。校門にもたれながらぼんやりと勾配を見る。ここを登っているときに手嶋は青八木を見つけた。ここを登る青八木をみて、彼は辞めようと思っていた自転車に跨がったのだ。ペダルを踏んで回して足が、息が、心臓がひきつれて引きちぎれるような思いをすることを決意したのだ。勝てないからやめようと思ってたんだ、と軽い言葉で教えられたとき、青八木は何をいえばいいのかがわからなかった。でも、手嶋が今時点で自転車を辞める気はないことに安心していたのだ。二年前の合宿では、彼が再び自転車を諦めかけたとき、ならば一緒に、二人でと言葉を繋ぐことができた。彼は、肩を震わせて了承の意を叫んだ。青八木はまた安心した。彼が自転車を諦められないことに。一年前の合宿では、彼が足をとめたときオレが引っ張るからといえば、やはり彼は肩を震わせてどうしようもないふりをしながらまたペダルを踏んでくれたのだ。じゃあ。じゃあ、今度は?今度はなんといえばいいのだろう。何をいえばいいのだろう。

言ったことはなかったが、青八木は手嶋の走る姿が好きだった。きれいなフォームで結構登るなあ、と手嶋は青八木を褒めたけれど、地図を見て研究をして、ぐらついても必死で、いつでもなにか考えながらペダルを回す手嶋の姿が好きだった。手嶋は青八木を表彰台にあげるために走るといった、そのときの目と、しゃんと張られた胸が好きだった。青八木は、なんとしてでも彼の目を、胸を守りたかったし、傍におきたかったし、欲をいえば、勝利を目指す指も、表彰のあとに青八木を褒める声も、労う手のひらも手放したくなかった。

「あれ?……あー」

後ろからもう懐かしくも感じる声がして、青八木は振り返った。そこには青八木が予想していた通り手嶋がいた。愛車を引いて、しっかりとこちらを見ていた。

「純太!」
「青八木、あー、どしたの」
「純太、部活」

あー、うー、あれな。手嶋が歯切れの悪い声をこぼす。じっとり、嫌な予感に包まれる。わかっている、薄々はわかっているのだ。認めたくないだけで。青八木は耳を塞ぎたくなった。そうでなければ手嶋の口を塞ぎたかった。

「部活な、辞めることにした」

もちろん、どちらも塞ぐことは叶わなくて、不吉な言葉が青八木の耳に突き刺さる。いやだ、絞り出した声に手嶋が肩をすくめた。さっきの古賀のようで、でも古賀よりも全然型にはまっていた。手嶋らしい動作だった。

「いやだ」

青八木は強い声で言った。つもり。実際はとても弱々しい声が出た。手嶋が軽く笑う。宥めるような表情だった。いやだいやだいやだ。思ったってもう遅いのかもしれない。いいや、遅い。

「ごめんな、一」

久しぶりに呼ばれた名前だった。彼が名前を呼ぶと、決まって青八木が降参するしかなかった。今だってそうで、いやだいやだと思っているのに。
「わかった」

絞りでた答えは了承だ。諦めでもある。手嶋は、青八木の肩をぽんと叩いて通りすぎる。愛車に跨がって急な勾配を下っていく。

「いやだ」

もう一度いってみたけれど坂を下る手嶋には聞こえない。聞こえたって意味をなさない。そういえば、足りない言葉で彼を繋ぎ止めてはいたけれど、彼の方が青八木よりもよほど言葉を知っていたし、使いなれていたし、口が達者でうまかった。当然、思い出してももう遅い。



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