脳みそが痺れるような嫌な音がしていた。

八月八日。純太と二人きりの生活は続いていた。幾分磨耗し刷りきれて、最近めっきり笑えなくなっていた。オレが笑わないと純太もどことなくストレスが溜まるのか、純太の表情も乏しくなった。とても静かな暮らしをしていた。

八月十三日。最近純太が夜泣きをするようになった。毎晩少し気温が下がる夜中の二時にわあわあと大きな声で泣くのだ。オレは純太が泣くたびに無表情のまま慰める。頭を撫でて、名前をよんで、一定のリズムで腹の辺りを叩いてやる。純太は落ち着いてくるといつもオレの手をとって握りしめ、眠りに落ちる。夏だった。暑いのが得意ではなかった。オレは純太の手のひらが熱くて、少し苦手だった。あんまりにも毎夜泣いてわめくので、寝不足気味だった。暑いのも相当負担になっていた。純太は夜に泣いて起きるわりに昼寝をすることはなく、いっそ寝てくれさえすれば休むことができたのに、だなんて、考えてしまう自分が嫌だった。

八月十五日。「近頃疲れてるわね」と労われたので夜泣きがひどいのだと相談すると、遊び足りないからだとバイト先の田中さんがいった。田中さんは二児の母で子守りの先輩である。オレはこのバイト先に勤める折りに「子守りをしているから時間に融通がきくようにしてほしい」とお願いしていたので、職場ではよく子供服のお下がりや、お菓子をもらっていた。子守りといっても本当の子供ではなく、子供のようになってしまった純太なので、子供服は着ることができないし、お菓子もあまり食べない。もらった服やお菓子は、申し訳なく思いながらもありがたく受け取って帰りに駅で捨てていた。

翌、十六日。夏なんだから思いっきり遊ばせたら夜には寝る体力しかなくなる、といって田中さんはビニールプールをくれた。もう使わないから、とビニールバックに降りたたんで詰め込まれている。オレは、はじめてもらったものを捨てずにきちんと持ち帰った。

八月十九日。純太のお昼にと小さなおにぎりをいくつか作っていたのだけれど、今日はバイトが休みであることに気がついた。おにぎりはいいとして、今日何をするかまったく考えていなかったことに頭を抱える。最近の純太はお絵描きには飽いてしまって、クレヨンと紙では時間が潰せなくなっていた。外に連れていってやれたらいいのだろうけれど、見た目は成人男性で中身は三歳児だなんて、周りの目が痛いだろうことは想像するまでもなかった。一応、不協和音が続く暮らしのなかでも、休みの日は純太と一緒に何かする、楽しいことをすると決めてはいたが、唐突にできた時間になにをしたらいいのかまったくと浮かばなかった。ちらりと時計に視線をやる。時刻は七時、純太が起きるのは大体決まって十時。あと三時間でなにか考えよう。そう決めて、また小さなおにぎりを作る。自分の分も一緒に作っておいて、今日は純太と一緒に食べよう。

使い終わった食器を洗いながら、ビニールプールを貰っていたことを思い出した。 もらったまま玄関口に起きっぱなしのそれを純太に見せて、これで遊ぼうと言うと純太はコテン、と首をかしげた。ビニールバックからビニールプールを取り出し、折り畳まれたそれを開く。空気入れなんてないので、ちょっとずつ口から息を吹き込んで膨らませる。肺活量はちょっと自信があったのでわりとすぐに膨らんだ。

「なあに?」

純太が首をかしげたまま問いかける。

「ビニールプール」
「びにいるぷうる」

教えてやると、純太がたどたどしく言葉を真似た。オレはうまいうまいと純太の頭を撫でてやって、プールに水を入れるために立ち上がった。着いてこようとする純太に「純太はここで待っててくれる?」というと、にっこり笑って頷いた。

バケツの水を三十回分いれてようやく小さな海が出来上がった。水かさが増えるたびに瞳を瞬かせながら、それでもお利口さんに待っていた純太にありがとうと告げる。純太は口をはくはくとさせてから大きめの声を出す。

「これ、これなあに!?」

頬が紅潮し、瞳はまあるく開かれている。細い睫毛か震えていた。

「海だよ」
「うみ!」

純太が歓声をあげる。オレも純太も久しぶりに笑えた。

同日、夜。結局、夜泣きはなおらなかった、ビニールプールでたんまり遊んだにもかかわらず、やっぱり純太は夜中の二時頃にぐずりだし、大きな声で泣いた。オレはすっかり慣れた手つきで純太をあやし、ため息を必死に飲み込んだ。ビニールプールを膨らませて、水のはいったバケツを運んで、疲れていたのかもしれない。じんわりと視界が濁る。大丈夫、舌にのせた言葉を音にせずに胃に落とす。さっき飲み込んだため息と混ざりあって吐き気がした。夜明けが近い。不協和音が聞こえる、耳の奥にじりじりと嫌な音が響いていた。純太が大きな声で泣く、うわあ、うわあ、と警報のように。

空が白む時間、静かに雨が振りだした。この部屋だけを切り取るようにしとしと。

ジリジリ、うわあん、警報を切り取るように、しとしと。

世界が見えない。

翌、二十日。目が覚めたのは一日が残り四分の三になった頃だった。純太もオレも泣きつかれて、気を失うように寝たのだろう。枕元で携帯電話がちかちかと明滅していた。たぶんバイト先からだとわかってはいるのだけれど、確認する気も掛けなおす気も起きなかった。オレは携帯電話をひっつかむとゴミ箱に投げ捨てた、純太はすよすよと寝ていた、柔らかな髪を撫でる。癖の強い髪は指先にくるんとまとわりついた。

「今日はハンバーグにしよう」

十六時。純太の目が覚めても泣き出さないように、純太の周りを純太が好きなもので埋め尽くす。大きなクマのぬいぐるみ、羊の枕、クレヨンに、自転車のカタログ、気に入りの絵本。純太の周りを完璧に包囲して、よし、と頷いてから家を出た。

まずはコンビニに行って貯金のすべてを引き出した。全部で二十万円、なんてちっぽけなんだろうと思いながら財布に突っ込む。次にスーパーに向かって、ハンバーグの材料を購入する。せっかくお金を持ってるんだからときれいな金色のシャンパンも買った、純太も子供のようになってこそあれ、一応は飲酒が許される年齢だから問題ないだろう。ついでに併設された薬局にもよって不眠症だと相談し、軽目の睡眠薬も買う。残りのお金は十八万。結構余ったので、もう少し足を伸ばして繁華に出る。アクセサリーショップをのぞいて指輪を二つ、もちろん同じデザインのものを、そしてちょっと高めのものを。残りのお金はまだ十六万もあったけれど、残念ながら使い道が見つからず、繁華を後にし、家に帰った。

帰宅できたのは十八時前だった。純太は目が覚めていたようで、玄関を開くと同じくして「はーちゃ!」と声をあげた。クマのぬいぐるみを抱えてにこにこしている。オレは買ってきたものを流しの横においてから、純太に近寄り頭を撫でて、ただいま、と声をかけた。純太がきょとりと呆けた顔をする。

「どうしたの」
「はーちゃ、にこにこだねえ」
「にこにこ?」
「うん!」
「お腹すいた?」
「すいた!」

純太は何が嬉しいのか、うきゃあ、と声をあげてオレの足に頭をぐりぐりとすり付ける。

「ごはんにしよう」
「ごはん」
「ハンバーグ」

ポトン、とクマのぬいぐるみが落ちた。純太は万歳をしてハンバーグ!と喜ぶ。作るから待ってね、と言うと、うん!といいこのお返事が返ってきた。

二十時。

「いただきます」
「いたあきます」

晩御飯は二人で暮らし始めて一番と言えるほど豪華なものになった。いびつな星形のハンバーグとトースト、それに安物のガラスコップにはいったシャンパン。純太のシャンパンにはストローを指しておいたけれど、気泡に押し上げられてコップから出ていきそうだった。

「おいしい?」
「おいしい!」
「ごはんのあとお出掛けしよう」
「おそと!?」
「お外だよ、海にいこう」

二十一時三十分。

ゴミ箱から携帯電話を拾い上げてタクシーをよんだ。三十分ほどできたタクシーに純太を抱えて乗り込む。荷物は鞄ひとつだけ。どちらまで、と聞かれるのに「海」とだけ返した。運転手は不可解な表情を浮かべるもゆっくりと車を走らせる。純太が落ち着きなく視線をさ迷わせる。楽しみ?とたずねるとこくこくと頷いた。その所作が昔の自分みたいでなんだかおかしかった。

二十三時。

夜の海は暗く、地平線なんて見えなければ、陸と海の境すらも曖昧だった。タクシーのなかですっかり眠ってしまった純太を乗るとき同様抱えて下ろす。タクシーのメーターは二万六千七百円。運転手が一万円以下は半額だというのに、三万円をおいてきた。

純太を抱えたまま、堤防をおり、砂浜を歩く。海も、切り取られたアパートと同じように、あの部屋と同じように静かだった。波打ち際に腰を下ろすと純太を揺り起こす。純太は少しぐずりはしたがちゃんと瞼を押し上げてオレを見た。

「海だよ」
「ほんと?」
「みてごらん」

わあ!純太が息をもらした。すごいねえ、おおきいね、まっくろだねえ、すごいねえ、と純太がこぼす。オレは純太がこぼす声一つ一つに頷いた。

「純太」

海に夢中になる純太に声をかけると純太は素直にオレを見る。鞄のなかからアクセサリーショップで買った指輪を取り出して純太に見せた。

「それなあに?」
「指輪、純太のだよ」
「じゅんの?」
「オレとお揃い」

ちゅ、と指輪にキスをしてから純太の左手をとって薬指に指輪をはめた。自分の薬指にも指輪をとおし、純太の唇に押し当てる。純太が不思議そうにするので、わざと口角を持ち上げて言う。

おまじないだよ

ぱちりと純太の瞳が瞬いた。純太の瞳からこぼれた光でシャンパンの存在も思いだす。半分ほど残ったそれを鞄にいれてきていたのだ。ついでに睡眠薬も。オレは純太にちょっと待ってね、と告げると、睡眠薬の箱を開ける。都合良く粉薬だったので、シャンパンのコルクを抜いて、瓶のなかに落とす。しゅわしゅわと気泡が沸いて潰れる音がした。

「ごめん」

純太の瞳を見て告げる。潮騒の音と混じって、またジリジリとおとがする。いやな、嫌な音。オレはその音には知らないふりをしてシャンパンを口に含むと、純太の頬をつかみ唇をあわせた、ゆっくり唇の隙間を割って純太にシャンパンを流し込む。ごめん、想いも一緒に注ぎ込む。

何度かキスとともに純太にシャンパンを飲ませる。純太は意識を落とし、ぐったりとしていた。動かない純太の瞼に、頬に、額に、唇に、首筋に、そして薬指の指輪にキスをした。いつかのように視界が濁る。ザザン、ザザ、海が鳴いた。

ごめん

吐き出したはずの言葉は海にのみこまれる。まっくろな海が広がっていた、ビニールプールじゃない、本物の海が。

オレは笑った。にっこり笑った。頬を滴が伝っていてこそばかったけれど、ぬぐいもせずに笑った。

純太純太純太、ごめん、ごめん、もうどうにもできなくて、ごめん。

ジリジリと嫌な音が鳴り響く、いつかの純太の泣き声と、海の音と。オレは純太をまるでお姫様のように抱えて立ち上がる。ゆっくりと前へ歩き出す。ちゃぷん、と水の音がして、足の裏から冷やされていく。一歩一歩踏みしめて、膝まで、腰まで、肩までも海に浸かった途端、ずるりと下から引きずり込まれる。オレは純太の腕をつかみ離ればなれにならないように気を付けながら手を繋ぐ、右手と左手、左手と右手をあわせて、指と指を交差させて。

純太。

海のなかで気泡がわいて潰れる。金色のシャンパンみたいだ。意識が遠退く感覚におそわれる、嫌な音が小さく小さくなっていく。腕を引いて純太を引き寄せた。額を合わせる。

おやすみ。

翌、二十一日。二人、海の底に落ちた。




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