もし自転車が口を利けたなら、あのときキャノンデールはなんと言っただろうか。

入道雲の真ん中を飛行機が突き抜けたせいで弾け飛んでしまったみたいにひつじ雲が浮かんでいた。いい天気だった。部室のなかでは嘆きというか、怒りというか、やるせなさというか。ともかくやり場のない感情をくすぶらせた人間がそれぞれどことなく苛立ちながら集まっていた。青空がもったいなく感じるような時間を過ごしているときに、ふいに部室の扉が開いた。現れたのは男だった。箱根学園の自転車競技部主将。インターハイの敵チーム、の、王様。そんな彼は部室に足を踏み入れることはしなかった。まるで中と外の間に壁があるように思わせた。彼は両の手でそっけない紙袋の提げ手を掴んだまま頭を垂れた。腰を折るという方が正しいかもしれない。オレは王様のとっても綺麗な最敬礼をただぼんやりと見ていた。田所さんが声を荒げ、巻島さんはすこし困っていたように思う。当事者ではないオレは空気のようにいることがとても正しいことのように思えたから、なんにもしなかった。金城さんが王様に歩み寄る、彼の肩を軽く叩きながらオレの名前を呼んだ。びっくりして上ずった声で返事をすると金城さんは朗らかに言った。

「自転車を貸してくれ。福富、すこし走ろう」

オレはほとんど反射で「取ってきます」と返して部室をあとにした。いい天気だった。こんな日は海沿いを走ると気持ちがいい。陽にあたためられた潮風が髪に絡まり、頬をなでる。海面は光を吸収し、好き勝手に跳ね返すからそこかしこきらきらと光って見える。自転車置き場についてキャノンデールにつけた鍵を外しながら彼らはどこを走るのだろうと考えた。サドルに跨がりペダルを踏む。

「お前、ちょっと借りられるんだって」

もし、キャノンデールに口が利けたならコイツはなんと返しただろうか。





むやみやたらにモノをねだることをやめたのは中学の半ばあたりだったとおもう。オレは浅はかで、卑しくて、欲張りで、わがままなものだから、小さい頃はそれはもう親を困らせた。お菓子がほしい、おもちゃがほしい、そうしてうんと褒めてほしい。自転車をはじめてからは、勝ちたくて、いろんな人に認められたくて、そうしてやっぱり褒めてほしかった。でも、ほしいからって貰える歳ではもうなくなってしまっていて、だからオレは欲しい欲しいと思いながらも、むやみやたらに欲しがることをやめた。だって、それ、貰えないから。

それでも、やっぱり欲しいものは欲しいから、ずっと指をくわえてた。いいな、いいなってずっと見てた。中学のときは勝ちたくて、高校に入ってからも勝ちたくて、すこししてからは誰でもいいからオレのことを認めてほしくて、青八木と組んでからは必要としてほしくて、古賀と喧嘩してからは理解してほしくて、今泉が後輩として入ってきた瞬間にせめてオレを認識してほしくて、合宿で怪我してからはもっと強くなりたくて、インターハイがはじまってからは柵の向こうに行きたかった。





欲しいばかりでなんにも得られず春が来て、夏になり、オレは今もキャノンデールに跨がってペダルを踏んでいる。世界がひっくり返ったような今を走っている。だってすごいんだ。過ぎていく観客の顔はみんな驚いていたけれど、たぶん、オレのほうが驚いてるよ。お前らに負けてねーよ。いい天気だった。空が騒がしい青さで、周りがすっげー賑やかで、左右からオレの名前が聞こえる。暑くて熱くてたまらないのに脳みそだけすっかり冷えたみたいにスッキリしていて、たぶんこれが集中ってやつで極限状態ってやつ。

オレは浅はかで、卑しくて、欲張りで、わがままだからいろんなものがほしかった。認めてほしかった、勝ちたかった、認識してほしかった。頑張ってるって、がんばったって褒めてほしかった。誰もオレのことなんて見ちゃいないからそんなもの貰えっこないってわかってたってほしかった。でも今、山岳リザルトでオレは頑張ってるって認めてもらえて、応援してもらえて、すげーなって褒めてもらえてる。本当に世界がくるって一回転して現実じゃないみたいだった。でも、でもさ。オレは欲張りだからさ。視界の端で道が開いた。もうすぐ景色が変わる。




もし、自転車に口が利けたなら、今、キャノンデールはなんて言うんだろう。二年前、お前を他人に託したことを怒るだろうか。呆れるかもしれない。うん、でも。それでもいいから。

赤い屋根が見える。汗か涙か視界が滲む。もしキャノンデールに口が利けたなら、他の誰でもなくお前に褒めて欲しいなって思うよ。




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