階段を駆け上がる、ちょこまかと逃げるノミ蟲に苛立ちしか覚えない。静かに平和に暮らしたいことはそんなにもてめぇに迷惑をかけてんのか。例えノミ蟲なんぞに迷惑だろうが、俺のこの先の人生に関わることではない。俺が平穏であることに、臨也はなにも関係ない。なのに、ノミ蟲のやろうは今日も元気に俺の平穏であろうとする日々を邪魔する。

「てめぇ!このやろう!待ちやがれ!」

ぜぇはぁ、と早い呼吸。階段を上った先は屋上だけ、行き止まりだ。飛び降りて死んでくれたらどれだけいいか。

「待つわけないでしょ、シーズーちゃん」

振り返って人を小馬鹿にする余裕がある臨也は案外見た目にそぐわず体力がある、だから鬱陶しいし、ややこしい。

「ほら、はやくおいでよ」

お先に!と言って校舎と外を隔てる扉をくぐる臨也に続いて静雄も外へと出た。肌寒い風と、白い光。冬と春の境目の気温が頬を撫でた。

「ゴール、本当、俺たちは毎回毎回同じことの繰り返しだね」
「誰のせいだと思ってやがる!」
「ああ、疲れた」

金網に凭れ掛かり息を整える臨也に噛み付いたけれど、言葉はさらりと流される。噛み付かれたはずの臨也はなにも知らない風で襟元をぱたぱたとさせて、涼を集めていた。

「シズちゃんのせいで暑いよ、眉目秀麗は汗なんてかかないもんなのに」

頭が良いくせに、頭の弱そうなことを言う臨也の横顔が、センチメンタルを装っているのに違和感しか覚えない、気持ち悪い。静雄は視線を逃がすために色の薄い空を見上げた。田舎ならば桜の花びらでも舞っていただろうかと考えて、まだ、桜の季節には少し早いことに思い当たった。

「俺さあ、」

遠いどこか、長閑な土地に思いを馳せていた静雄の思考は、臨也の声によって、桜並木など探さなければ見つからないような、コンクリートばかりの街並へと連れ戻す。静雄は舌を打った。

「シズちゃんと追いかけっこするの、そんなに嫌いじゃなかったんだよね」

ガシャリという音を立て、勢いをつけて金網から背を離すと、臨也はくるりと回って言葉を続ける。

「こう、さ、テンポが良くて、くるくるくるくる、同じとこばっかり追いかけっこしてまわって、たんたんと足音を響かせてさ、なんだか踊ってるみたいで、嫌いじゃなかったんだよね」

言葉に合わせて臨也は回る、踵を鳴らして、両手を広げて、くるん。静雄は、臨也を追いかけているとき、そんな風に思ったことはなかった。けれど、臨也は、そんなことを考えていたと言う。いつも、いつも。踊っているようだと思いながら、制服のすそを翻していたのだと。

「でもさ、これも今日で終わるんだよね、寂しいなあ、少し」
「俺は、てめえに平和を邪魔されねぇ毎日が来ると思うと清々する」

やはり、今日の臨也はセンチメンタルだ。冬の切なさが薄れ、春の喜びが近づく季節。今日が最後というだけで。もしかしたら、追いかけっこはまだまだ続くかもしれない。静雄にとってはまったく喜ばしくないことだけれど、まったくないとは言いきれない。しかし、たった今、この日から、飽きるほど通い詰めた学校の校舎で互いに会うことがなくなるというだけ、追いかけることも、追いかけられることもなくなるというだけ。それだけで、臨也はひどく人間的な心を晒す。日常を手放すことを惜しむ。

「だからさ、謝らないよ」

臨也の脈絡のない言葉に静雄は顔を歪める。臨也が今更謝るなんて、静雄からすれば可笑しな話だし、期待すらしていないが、謝らないと堂々といわれるのも癪なものだった。波立つ静雄の表情や心情などお構いなしに臨也は言葉を重ねる。俺は謝らない、ともう一度言う。

「俺は寂しいんだ。シズちゃんは馬鹿だから三年なんて期間は一週間で薄れるだろう?寂しいんだ、それが。別にシズちゃんが好きだから忘れて欲しくないだとかそんなんじゃあない。ただ、自分の存在が薄れるのが悲しいんだ。俺の学生生活の三年間はシズちゃんとの喧嘩で大半を占めていて、それをいきなり無くすことが悲しいんだ。シズちゃんとの喧嘩は踊るように軽快だった、それがまた悲しいんだ」

静雄は歪んだ顔をもとに戻そうとして失敗した。なにか言葉を返そうと思ったけれど、なにも浮かばなかったので口噤んだ。




ラ ス ト ワ ル ツ




遠くで始業のベルが鳴る。一生で最後の始まりを告げる鐘の音は録音だ。本物じゃない偽者の鐘の音を合図に二人はコンクリートを蹴った。臨也は片手にナイフを、静雄は固く拳をつくって。いつも通りの喧嘩だ。臨也に言わせれば、そう、踊るような。

近づいた赤い瞳が細まる。閉じることを知らない唇が動く。

「俺はね、シズちゃん、今日この日もシズちゃんと変わらず過ごせたことを、悔しいかな、嬉しく思ってたりするんだよね」
「俺は最高に嬉しくねぇけどな、こんなことが日常だっていうのも、今、この時をお前なんかとすごしてるのも」

桜の舞わないコンクリートの犇く街で、日常をひとつ手放す。俺たちは、今日、卒業する。


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