インターハイが終わってからというもの、部はただただ重苦しい空気に包まれていた。怪我人はたくさん出たし、勝つことはできなかったし、人間関係はちょっと歪んだ。オレは先輩方にも同年代の部員にも態度を変えたし、以前のように満足に自転車に乗ることができなかった。責めるような悔やむような空気がずっと立ち込め、部室に篭りきっていて、窓を開けて換気をしたって、それこそ林を走ったって拭えなかった。息を吸い込むたびに肺に泥がたまっていくようだった。

あんまりにもそんな日々が続くので最近は部活に出ることが億劫で仕方がなかった。正直すごく嫌気がさしていた。空気がわるい、やりたいことができない、自転車も満足にのれなくて、人との会話もままならない。最悪だった。顔を出す意味さえないように思えた。だからだろう。その日は雨が降っていたから脚が痛むことにして、ピエール先生に病院に行くので休みますと告げた。彼はオレの脚を見て、顔を見て、窓の外を見て、一息ついてからオレの手を握った。

「そうだね、そうしなさい」

ありがとうございます、と無表情に答える。ピエール先生が頷いた。



部活を休んだけれど、病院には行かなかった。そのまま帰って自室のベッドに横たわる。今まで肺に溜め込んだ泥を吐き出す術もなく、身体は重たいままだ。部屋には自転車に関わるものがそりゃあもうたくさんあって、なんだかそれを目にするのも疲れてしまって目を閉じた。ついでにこのまま寝てしまおうと考える。疲れには睡眠が一番なのだ。



夢を見ているとすぐにわかったのは、その空間になにもなかったからだ。真っ白で、たぶん四角い空間にオレはいた。とくにすることもなくぼんやり立ち尽くしていたら突如傍らに何かが現れる。男だった。まるまる太っていて、顔が脂ぎっていた。豚みたいな男だ。ラフな格好をしていて、オレを見るなり口角だけをあげてやけに強気な笑みを見せた。

「君は野球には興味ない?」
「野球ですか」
「ああ、俺はさ、ちょっと有名なところで監督をやってるんだけど、君タッパがあるから、見込あるよ。肩が強そうだからいい投手になれる。どうかな」

いいながら男はオレに黒い革製のグローブを押し付けてきた。手に余る、と感じた。不自由そうだ。けれど、今のあの部活の空気を考えれば、違うスポーツに手を出すのだってありかもしれないとも思えた。

「どうかな」

男は重ねていった。オレはちょっと考えていた。すると、ちょっと前みたいにまた突如としてなにかが現れる。やはりあらわれたのは男だ。やけに痩せっぽっちで、頬が窪んでいた。まるで草ばかりを食べているかのように痩身なわりに、立派なグレーストライプのスーツを着ている。男が言う。

「やあ。君、サッカーには興味ない?僕はあるところで監督をしてるんだけど、見込あるよ」
「はあ」
「脚の筋肉が立派だし、背も高いからキーパーにだって。どうかな」

そういって、男がサッカーボールをオレに投げてよこす。オレは反射的にそれを受け止めた。右手にグローブ、左手にサッカーボールをもって、なんだか夢なのに疲れてきたなと考える。それはどこかの空気にも似ていた。オレが何も返事を返さずにいると、豚のような男と、草が主食のような男が睨み合って喧嘩をしだす。やれ、俺が先に見つけたんだ。やれ、僕の方が彼の才能を活かせるだろう。二人の男の声量が徐々に増していき、耳鳴りのようになる。まっぴらだ。けれど目が覚めそうにもないので仕方がなしにオレはグローブをつけて、手を閉じたり開いたり、サッカーボールをまるでバスケットボールみたいにテンテンとついたりと暇を持て余した。ほんとうに持て余していた。だから急に両肩を捕まれてとても驚いた。

「おい」
「わ、」
「お前はどっちを選ぶんだ」

怒鳴るように問われてまた驚いた。まっぴらだ。まっぴら。鬼のように表情をおそろしくして問い詰める男二人をなんとなく視界に入れながら、なんと返そうか考えて、どれが穏便か迷って、どうするんだ、と問い詰められて。肺がまた淀んでいく、なかで、きらりと男二人の背後、なにかが光を反射した。なにか、そのなにかをオレはきちんと知っていた。右手にあったグローブも、左手にあったサッカーボールも投げ捨てて、大事な道具を投げられたことに小さく悲鳴をあげる男二人を押しのけてオレは光るそいつに駆け寄った。やっぱりオレにはこれしかないのだ。どこから射しているかもわからない光をきんきんきらきら反射する車体に触れる。オレの大切な愛車だ。メリダ。ロードバイク。それはもうおったまげるくらいに魅力的に見えた。やはりオレにはこれしかないのだ。肺にたまっている泥が渇いていく気分だった。固まって道になるような心地がした。からりと晴れた。そんな気がした。サドルを一撫でする。夢が醒めるのを感じた。



目を覚ますとそこは正しく自室であって、四角いだろう空間ではなく、当たり前だけれど、豚のような男も草を食って生きてそうな男もいなかった。自転車に関わるものがそこかしこにある自分の部屋だ。

「そうなんだよな」

これしかないんだよな。不思議と気分はよかった。雨はまだ降っていたけれど雨足は弱く、明日の朝には晴れているだろう。ふむ、とオレは考える。もう使わない本をまとめている本棚に近づき、本の背表紙を指でなぞった。一冊の本を抜き出す。自転車を始めた頃に買った教本だった。自転車整備の基礎を中心にまとめられている一冊だ。必要な機材や道具の説明からしてくれる本当に初心者向けのそれをオレは通学鞄の中いれた。夢の中のメリダは、そりゃあ綺麗でぴかぴかに磨き上げられていた。満足に走れなくてもロードを愛してやれるのだ。どうせなら時間もあることだから綺麗にしてやろう。そうしてどうせなら、他の部員の自転車もきれいに仕上げてやろう。今とても気分がいいから。



翌朝はからりと晴れていて、絶好のライド日和だった。オレは玄関脇にとめてあるメリダをみる。すこし薄汚れているが、やっぱりおったまげるくらいに魅力的だった。夢の中で渡されたグローブの色もサッカーボールの感触もさっぱり忘れてしまうほどにだ。今日は一番に部活に入って、こいつを、あそこにある自転車を徹底的に光らせてやるのだ。

身体が軽い。久々に楽しみで仕方がなかった。



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