インターハイが終わって、夏休みが明けてからの手嶋は、見るからに気に病んでいた。応援に行ったから、見に行ったから知っている。夏の真ん中のあの日に、オレの夏が終わったように、手嶋の夏もまた、夏の終わりと同時に幕を下ろしたのだった。

三日間に渡る白熱のレースは、まるで蜃気楼みたいで、手嶋の手元にはなんにも残らなかったように見えた。あれほど歩いたのに、幻を目指していたみたいになんにも。もしくは疲労だけは残ったのかもしれない。そんな手嶋に、オレはただ身勝手にかわいそうがってかける声を探したけれど、そういえば、オレの言葉を簡単に飲み込んでくれるほど手嶋は簡単な人間でもなかったと思い出してそっとしておくことにした。

気を落とした彼は、授業の合間の短い休み時間でさえ教室から出ていくようになった。授業のぎりぎりにはきちんと帰ってきて、シャープペンシルを回しながらどこか上の空で授業を聞き流し、授業が終わればまた姿を消した。そんなことが続いて、もう一ヶ月も経とうとしていた。世の中には時間が解決することはままあれど、彼の憂鬱は時間を追うごとに増していくようにも感じられた。あの時、言葉をかけてやれば良かったのだろうか。それは、今からでも遅くはないだろうか。それとも。

十分程度の休みでさえ姿を消すのだから、昼休みだって彼は当然教室から出ていった。もうみんなカーディガンを来ていて、季節は秋で、廊下はうんと底冷えがしたし、外は風が嫌味なほどに冷たくなっていた。オレは机の横にひっかけていたコンビニ袋をひっつかんでそろそろと手嶋の背中をつける。教室から溢れるように出てくる人の波を彼は野良猫のようにするするとすり抜ける。オレはというと、いろんな人に肩をぶつけながら、手嶋の頭を見失わないように一生懸命になった。流れに逆らって歩き、階段を登り、たまに駆け足になって、ようやくたどり着いたのは屋上だった。正しくは屋上に続く階段の踊り場。

他の学校は知らないが、うちの学校は「安全のために」と屋上のドアには鍵がかかっているため、ドラマやアニメのように屋上でご飯を食べたり、遊んだりなんてことはできないし、夏はともかく冬は殊更冷える。おかげでまったくと人影がなく、しん、とした空気は息苦しいほどに静かだった。

オレはコンビニ袋を鳴らさないように気をつけながら、どうしたものかと考えた。階段をあと数段のぼれば、手嶋がいる。けれど、そんなすぐに登場してもいいものだろうか。後をつけてきましたよ、と言わんばかりじゃないだろうか。だが、結局こんな人気のないとことにいるのも不自然で、どうせつけてきたことなんてすぐにバレるだろうとも思えた。聡いやつだから。考えてる時間が惜しくなってきたので、オレは観念して階段をあがる。

あれ?と思ったのは手嶋の姿がなかったからだ。おかしい、絶対にいるはずなんだがな、とごちながら足元を見て飛び退いた。手嶋は階段に座り込むように蹲っていた。

「わ」

つい声を上げたけれど、手嶋が顔を上げる様子はなかった。膝を抱えるように腕を組んで、頭を垂らしているものだから寒さに白んだ首筋が見える。オレにはそれがどうしようもなく寂しくみえた。

「手嶋」

呼びかけて、肩を叩いてやる。さらりと癖毛が揺れて流れた。頭が重たそうに持ち上がり、ぼんやりとした手嶋と目があった。わずかにシャカシャカと音がする。手嶋の耳からイヤフォンのコードが伸びている。オレはもう一度「手嶋」と呼びかけると、彼はイヤフォンを外し、数度瞬きしたあとに「東戸?」となんだか不思議な音程でオレを呼んだ。

「飯、いいか?」
「いいけど、寒いだろ」
「お前が心配でな」

手嶋が「はあ?」と頓狂な声をあげるが、聞こえなかったことにしてオレは手嶋から少し離れた場所に座る。コンビニ袋の中からコーンマヨパンを取り出して封をあけた。

「手嶋、インターハイのこと引きずってるだろう」

手嶋はなんにも返さなかった。オレも別に返事は期待していない。冷たくなって油の浮いたパンに「失敗した」と思いこそすれ、言葉を間違えたとは思わなかった。

「あの時、無責任なことを言わなきゃよかったな。頑張れなんて。星だなんて言わなければよかった。そうしたらお前はこんなにも気にすることなんてなかったかもしれない」

カフェオレを取り出してストローをさす。やっぱり手嶋はなんにも言わないまま、また頭を垂れ下げ、腕の中にしまい込む。

「お前を必要以上に頑張らせたのかもしれない。好きだろう続けてくれなんて言わなければ、こんなにも責任を負うこともなかったかもしれない」

ひ、ぐ、と喉が引き連れる音が、腕の隙間から漏れるように聞こえた。音に合わせて肩が揺れる。

かわいそうに。

ちょっとだけ、悪いことをしてしまったと思っていた。無責任にむごい道を歩かせてしまった。別に自分の一言で手嶋が自転車を選びつづけたわけではないことなんて知っているし、それ以上の出会いがあって切っ掛けがあって選択してきたからこそ今があると知っているけれど。それでも、かわいそうなことをしたと自惚れのように思っていた。辞めてしまえということもできたし、つらいなら手放せということだってできたのだから。だって、想像以上に「彼が自転車をただただ続ける」というその一点だけにおいて世間はめっぽう厳しくて。

「世界はお前にやさしくないなあ」

どうにも、むずかしく作られてるなあ。かんらと笑って言ってやると、くぐもった声で「うるせえ」と手嶋が言った。あいも変わらず、ひっくひっくと繰り返している。コーンマヨパンが食べ終わったので、袋の中からピザパンを取り出して封を開けた。

「手嶋。飯は」
「さっ、きの休み、に、たべた」

途切れとぎれの声に「そうか」と返す。きっと手嶋からしたらオレだって「世界のひとつ」として手嶋のことを責めるだけの存在になるのだろう。今こうして同情を押し付けることだって、手嶋には苦しいに違いないのに。

「そうだ、カラオケにでも行こうぜ。聞かせてくれよ、お前の得意なやつ。そういえばさ、飲み放題に午後ティーのミルク入ったんだぜ。好きだろ」

今度はなんにも返事がなかった。気を悪くしただろうか、と考えたけれど、もうこれ以上手嶋の気が悪くなるとも思えなかった。すこしばかり返事を待って見たけれど、手嶋はぐずるばかりでやはり黙りとしている。オレは諦めてカフェオレに手を伸ばした。不自然なほどに冷え切っていて、一口飲むと、内臓をなぞるように胃に落ちた。その感触がどうにも気持ち悪くて、自然と顔をしかめた時。手嶋がスン、と洟をすすった。やたらに響いたものだから。顔を出したのかと思えば、先ほどと変わらず、亀のように頭を両腕にしまいこんでいた。

「手嶋?」
「……今はリプトンの方がすき」

そう言う手嶋の声があんまりにもあっけらかんとしていて。

「ははっ、じゃあ仕方ないな」

かわいそうに。カラオケのドリンクバーでさえ、ままならない。お前を慰めてやるには、もう遅いだろうか。まだ間に合うだろうか。それとも。

ただ傷つけるだけだろうか。



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