だってそんな、思いもよらない。

プロのロードレーサーになるまでに実はちょっと迷った。自分にはこれだけしかないと思っていても、今まで持っていたものを半分以上捨てることになる選択にまだ若い自分が迷わないわけもなかった。けれど行って来いといろんな人に背を押されたら、行かないわけにもいかなかった。そんなふうに言いこそすれ、プロの道を選んだのは自分の意思に違いはないのだけれど。

手嶋さんは大学に入っても自転車を続けていた。それどころか社会人になった今も自転車を、いいや、自転車競技を続けている。たまに小さなレースに出ていると小野田から連絡があった。最初こそその話を聞いたときは驚いたが、よくよく考えてみれば当然のことで彼はやめるやめると言って自転車を手放せたことなど今の一度もなかったのだ。もうこの歳になって突っぱねる方が疲れがたまり、馴染みすぎた感触は手放すには難しいのだろう。
 
日本に戻ってくる用事があった。わりと長い暇も与えられたので実家で羽を伸ばしていた。ソファーに座りテレビをつけるとロードレースが映る。宇都宮で行われているジャパン・カップの中継だった。丁度、狙ったようなタイミングで携帯電話が振動する。どうやらメールのようで差出人は小野田だった。
「今泉くん久しぶり!こっちに帰ってきてるんだっけ。それでね、急なんだけど今テレビでやってるレースに手嶋さん出ててね、それのお疲れ様会を兼ねて明日みんなで晩御飯に行くんだ。よかったら今泉くんもどうかな。考えておいてね」
文面に軽く目を通したあとまたテレビに視線を戻した。これに手嶋さんがでてるのか。オレは小野田からのメールに「行く」とだけ返して台所に向かった。どうせなら見ておこうと思ったのだ。長いレースになる。どうせなら、紅茶でも飲みながら。

手嶋さんが出場しているのはオープンレースだった。宇都宮市森林公園の周回コースを走る。世界選手も走るこのコースは赤川ダム沿いを通り抜けるといろは坂ほどではないが綴ら折の坂があり、下りではほぼ直角のコーナーをかまえ、平坦を過ぎればゴールとなる。

紅茶を煎れてもどるともうレースは始まっていた。ソファーに深く腰かけてテレビを眺める。会場の熱気に当てられ走り出したくなる気持ちは紅茶を一口含んで飲み干した。

過去にそこまでこだわりはないが、高校の三年間は惜しいことをしたとたまに思うことがある。あの時の走りは今はもうできないだろうし、あれが自身の頂点、最高地点だったんじゃないかとたまに考えることがある。
たとえば手嶋さんとももっと大事に走っておけばよかったと後悔することがある。でもそれは、もう二度と道を同じくできないから。「今この一瞬だけ」という輝きが、時を重ねた身体には、たまにひどく眩しい。

レースは山岳に入り紅茶は三杯目になっていた。手嶋さんは先頭から四番目を走っている。斜度は少しずつあがり、手嶋さんは一人、二人と抜いていく。スプリントラインにきたころには彼の前にはもう誰もいなかった。オレは内心ちょっぴり驚きつつも、もう随分と昔のインターハイを思い出す。
 彼は、そうだ、クライマーなのだ。

山岳賞は手嶋さんが獲った。右手を突き上げ、人差し指をピンと伸ばして空をさす。なんだか彼は変わらない。頂の余韻に浸るのも束の間、彼は姿勢を低くし、坂を下る。そのままゴールを目指すのだ。

紅茶は三杯目から増えることはなかった。飲む暇もなくずっとテレビを見ていた。坂を下りきり、コスモスが咲く道を越え、手嶋さんはゴールを割った。両手を広げて、それこそ胸を広げて誇らしげに。オレはいつの間にか握り締めていた手をゆるりと解いた。詰めていた息をゆっくりと吐き出す。

手嶋さんは、彼は、特別速い人ではなかった。きっと今もそうなのだろう。もつれ込むような場面が何回もあった。けれど、こうして握りこぶしをつくるのは、彼の走りには一生懸命さがあり、誰もが心を震わせる、そういう走りたからだ。そう、昔っから。

レースは表彰式にうつった。オレはようやっと四杯目の紅茶を煎れに行く。三位、二位、と名前が呼ばれ、拍手と花束がおくられる。そうしてやっと、待ちわびるように手嶋さんの名前が呼ばれた。「そして彼は山岳賞も受賞しています。あわせて表彰とさせていただきます」と司会がいう。オレは紅茶を一口飲んだ。ごくん、と胃に落とす。テレビでは、まだ手嶋さんは表彰台にあがらない。不審に思いながら彼を注視すると、なんだか様子がおかしかった。なにかに耐えるように唇を噛み締め身を振るわせていた。はじめての表彰台でもあるまいし。だって、表彰台なんて珍しいものじゃない、インターハイの三日目だって彼は表彰台に立ったのだ。そう考えて、ふと気づく。もしかして、いいや。
「……ちがう、はじめてだ」
彼は初めてだった。自分だけの力で頂をとらえること、自分だけの脚で、一番を掴むこと。その脚で、高みを踏みしめること。

オレは紅茶なんて置いて急いで高橋に連絡をとった。今から栃木まで新幹線で?タクシーで?いや、自転車の方がはやいだろうか。ばたばたと部屋を出て携帯電話を忘れたことを思い出す。急いで戻って携帯電話をひっつかみ、高橋が回してきた車に乗り込んだ。車の中に備えつけられたテレビをつけて表彰式を映す。オレは携帯を操作しメール画面を開いて手嶋さんにメールを送った。
「おめでとうございます。今行きます」
焦っていることが前面に出てしまった文章だが仕方がない。そんなことより、どうか間に合うといい。車は滑らかに走り出す。小さなテレビからワァッと歓声が湧いた。手嶋さんが表彰台に乗り花束を受けとる。ボロボロと涙をこぼすのを見て、はやく会場に、と気を急かすことしかできない自分がもどかしかった。

三時間ほど車を走らせてようやっと会場につくと手嶋さんに電話をかける。表彰台は次に行われる女子オープンレースの表彰準備をしていた。電話は三コールで繋がり「もしもし」と少し疲れた手嶋さんの声がする。
「どこにいますか」
「え、なに。本当に来たの?」
「はい」
「あはは、えっと、表彰台を背にして歩いてきてもらえる?」
「どっちにですか」
「真っ直ぐだよ、できればゆっくりな」
手嶋さんの意図が掴めないながらも言われたとおり、表彰台を背にしてなるべくゆっくりと歩いた。周囲を視線だけで見渡し手嶋さんの姿を探すがまったく見つからない。集中しすぎて周囲の音が消えたように静かになる。時折、電話口に「手嶋さん」と呼びかけてみるものの彼は「まあまあ」とあしらった。
 
アンタねえ、と声をあげようとしたその時。足が止まる。後ろから肩を掴まれて足を止められたというほうが正しい。後ろを振り返ろうとすると肩を掴んだ人物に制止される。
「そのまま前向いいてて」
「手嶋さん、アンタどういうつもりですか」
「サスペンスみたいなセリフもキマってるな」
手嶋さんが「あはは」と笑うのでオレは深くため息を吐いた。手嶋さんは未だに笑いの気配を含みながらオレの肩から手を放し、代りに腕を掴む。
「……一歩」
「はあ?」
「これでやっと今泉の隣。オレちょっと頑張ったんだぜ」
するりと。腕を掴んでいた手は手のひらに移動する。まるでそうするのが当然のように手嶋さんはオレの手を握った。横を見れば、手嶋さんはすっかりうつむいている。ズッ、と洟をすする音が聞こえる。オレはかける言葉を探してみたけれど、慰めてもいいものか、彼を讃えればいいものかがわからず、結局はなにも言えずにいた。
「手嶋さん」
せめても名前を呼べば、手嶋さんは繋いでいないほうの手で、キッと涙を拭った。音がしそうなほど勢いよく彼は顔を上げる。その表情は目元に多少の滴がありこそすれ晴れやかだった。手嶋さんがニッと笑う。
「やっと、一個だけ追いついた」
「おめでとうございます、すごかったです」
ようやっと伝えられた言葉に、手嶋さんは一瞬だけ目を丸くして驚いてみせたあと、くすぐったそうに破顔する。
「明日、みんなで祝勝会ですね」
「もちろん奢りで頼むぜ」
冗談めかして言う彼に「今回ばかりは構いませんよ」と言うと「冗談だよ」と怒られた。

ふと、たまに、もう学生の頃のような走りはできないと思う時がある。彼らともうあの時間を走れないのだとすこし寂しく思う時がある。あの最高地点には、もうたどり着けないのだろう。あとはゆっくりと帰着を目指すだけなのだ。それまでの間、手嶋さんはオレを追いかけてくれるだろうか。今日のように。そうしていつか、一緒にゴールを割ることができたら。

それはきっとどんなものよりも素晴らしいこと。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -