今、金貯めててさ、二千万、いやこれじゃあ途方もないから、一千万。一千万貯まったら死のうと思う。

屈託なく、日常会話と同じ声で、なにひとつ緊張も見せずに手嶋が言ったのはもう五年も前のことだった。さほど遠い記憶ではなかったけれどあんまりにも馬鹿げた、それでいて無茶苦茶な話だったものだから、古賀はその話をすっかり忘れていた。そのとき漠然と、じゃあ自分も貯金でもするかな、なんて考えてその話は終わったのだ。

手嶋から連絡があったのは、毛糸のカーディガンが恋しくなり始めた秋の頃、まだ空の青は濃く、夏の名残を見せてはいたが、気温はしっかりと移ろいを見せていた。ちょうど昼時で、古賀はサンドイッチでも作ろうかと冷蔵庫を覗いていた。リンリンとスマートフォンが鳴る。古賀はそれを三コールで静かにしてやった。

「あ、もしもし古賀?」
「なんだ」

手嶋の声を聞くのはずいぶんと久しぶりだったけれど、一切時間の経過を感じさせないやり取りだった。手嶋がいう。

「あのさ、一千万貯まった」

だから、死のうと思って。古賀はしばらく思考を巡らせたあとに、そうか、と返す。わかった、といってやると、電話口の相手はケラケラ笑った。

「それでさ、ものは相談なんだけど、少し長いこと仕事休めたりしない?俺の最後の時間もらってくれたりしない?一ヶ月だけ待つから、時間がとれたら一ヶ月後の今の時間に空港まできて」
「手ぶらでか」
「パスポートは持ってきて」

一ヶ月後、古賀は深い緑のセーターをきて、空港を訪れていた。古賀を呼び出した手嶋はというと、古賀を見つけるなりけたけたと笑う。

まさか本当に来るなんて!

あんまりにも笑い倒すものだから、古賀は手嶋の後頭部を叩いてやった。会うのはおよそ五年ぶりだ、それこそ、手嶋が金を貯めて、貯まったら死ぬと言ったっきり一度も会っていなかったのだ。

「久しぶりな感じがしねーなあ」
「お前がいつまで経ってもバカだから」
「失礼なやつめ」

言いながら手嶋は古賀にチケットを差し出した。安っぽいカーキ色をしたトレンチコートの右ポケットからでてきたそれは、少しよれている。行き先はグアム。

「なにするの」
「スキューバダイビング。そんで適当に一泊したらスカイダイビングもしにいきたいからどっか移動して、古賀のためにイタリアあたりも行きたいかな」
「……なにするの?」

古賀が再度訪ねると、手嶋はニィ、と口角をあげた。


空を飛んで数時間。手始めにグアム。二人ともたいして英語が堪能なわけでもないのに降り立ったのでスキューバダイビングができる場所にいくこと以前に、グアムの気候にあった服を買うだけでも苦労した。やっとのことで淡さを感じる海に飛び込むのに二日を費やした。

次に向かったのは上海で、屋台を巡り歩いて一泊、そのあとスイスへ飛んで手嶋が望むようにパラグライダーをした。宙を漂いながらぎゃあぎゃあと騒ぐ手嶋をよそに、古賀は眼鏡の心配だけをしていた。そのあと三回ほど空から落ちて、街並みを観光する。石造りの道を踵で鳴らしながら、古賀はたずねた。

「青八木じゃなくてよかったのか」
「うん、たぶん付き合ってくんねーもん。パラグライダーとか嫌いそうじゃん」
「ふうん」

いくつか国を跨いでイタリアに辿り着く。ただホテルでだらけるだけの一日もあったし、吐きそうなほど食べ回った日もあった。どの日も手嶋は子供みたいに笑ってはしゃぎ回っていた。

「もうそろそろ金なくなるわ」

手嶋がいうので、古賀はいつかのように、そうか、とかえした。わかった、と言ってやったけれど、あの時のようには笑わなかった。手嶋と古賀は小さな公園の屋台でパニーニとサンドイッチを買った。真っ赤なベンチに腰かけて半分に分けて食べる。ローストされた鴨とレタスとトマトがはさまれたサンドイッチを咀嚼しながら、古賀はあの日サンドイッチを食べ損ねていたことを思い出す。

「あのさ、なんで青八木にしなかったか聞いただろ」
「ああ」
「青八木は付き合ってくれなさそうってのも、もちろんなんだけど、それ以外の理由を言うとさ、古賀のこと好きだったんだよ」

古賀はサンドイッチの最後の一口をよく噛んで飲み込む。なにか返事を返すべきか迷っているうちに手嶋は立ち上がってふらふらと歩き出す。

「純太」
「クレープ売ってる」

あのあと、クレープを買って食べて、散歩がてら適当に歩いた。途中協会をのぞいたり、パン屋をのぞいたり、酒屋によって安いワインを買ったりした。気がつけば海と町を見下ろせる場所にきていた。夜が更けるまでには時間がありそうだった。陽が高く、海が光を反射してところどころ金色に見える。

手嶋がワインを飲む。グラスなんてないので瓶に直接口をつけて。風が吹いて少し肌寒く感じた。毛糸のカーディガンが恋しくなるような。

「もうすっからかんだ」

手嶋が笑った。アルコールのせいか、ふにゃふにゃとして筋肉にしまりがない。

「てことで、オレ死ぬわ。付き合ってくれてドーモ。お前は別に死ななくてもいいよ、ちゃんと帰れるだけの金も残してある」
「……本当に死ぬか」
「死ぬよ、だってもう生きる金ないもん」

ちゃぷん、ボトルのなかでワインが揺れる。古賀はため息ひとつ。バカだなあ、と知らず声に出た。手嶋が呆けるので、古賀はまた、バカだなあ、と言ってやる。

「オレはまだ、金使ってないよ。お前ほどじゃないけど貯金もある」
「でもそれは古賀のじゃん」
「なんのために貯めてるとおもってる」
「さあ」

また風が吹いた。古賀は肌寒さに鳥肌をたてながらも、そんなことおくびにも出さない。ただ手嶋のくるんとカールした髪が頬を打つのを見つめ、擽ったそうだな、なんて考える。考えながら、迷いなく言葉を吐く。

「お前の命を買うためだよ」

手嶋の瞳が海を写したようだった。光を反射して、ところどころ金色に見えた。手嶋はけたけた笑うと、どっちがバカだよ、と嬉しそうに言った。まだ半分以上も残っているワインボトルを後ろに放り投げると古賀の腕をとって尋ねる。

「で、どこにいこうか。日本?」
「とりあえず寒いから暖かいところがいい」

ガシャン、とワインボトルが割れる音がした。陽はまだ高く、光を降らせる。海に、割れたボトルに、そして手嶋の瞳に反射して、古賀にはとても眩しく見える。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -