手嶋はよく歌をうたう。テレビを見ているときや、携帯電話をいじっているとき、洗濯物を干してるときや、湯船に浸かっているときによく歌を口ずさむ。鼻唄だったり、ちゃんと歌詞を並べていたりと、時によって様々ではあるが、口を閉じてじっとしているときがあまりイメージできないくらい、古賀は手嶋が歌うのを聞いていた。歌は、手嶋が好んでよく聴いているJPOPを中心に、テレビのコマーシャルできくような曲や、童謡、ディスコチューンや、クラッシックと様々だった。

 晩御飯を済まして、交代で風呂に入る。明日は珍しいことに、二人揃ってなんにも予定のない日であったので、各々がゆっくりと湯に浸かることができた。ここ最近は、やれ明日は提出しなきゃいけない課題が、だとか、やれ明日は誰々とどこどこに行かなくてはいけないのだ、なんて慌ただしい日が続いていた。古賀も手嶋もはやく起きて、遅くに帰宅していた。晩御飯だけは無理くりに時間をあわせていたけれど、また明日もはやいからとありあわせで作られた、酷いときは冷凍食品やコンビニ弁当を急いで胃におさめて、バスタブに湯をはる気力も時間もないために二人してシャワーで済ませていた。手嶋なんてしょっちゅう髪の毛を乾かさずにベッドに雪崩れ込むものだから、古賀はその度にちょっとだけ苦い表情をする。

「頭くらい乾かしたら?」
「古賀がやってくれるなら」
「今はそんな気力ない」
「だよなぁ」 

実は二人とも言い合う気力もないのが正直なところで、結局手嶋は、ほぼ毎夜、髪を乾かさないままであったし、古賀は毎夜、一言は苦言を呈すも、最終的には手嶋の髪を乾かすよう言い含めることは諦めて眠りについていた。朝だって慌ただしく起きて「じゃあ夜に」と言って家を出るばかりだった。顔を付き合わせているのは晩御飯のときの数分と、寝る前の数分、きっと一時間にも満たない時間だろう。そんな日々を少しの間過ごしていたものだから、お互いわざわざ示したりはしないけれど、ゆっくりとできる夜があることが嬉しくてたまらなかった。

 古賀が風呂からあがると、手嶋が木製の椅子に座って歌を歌っていた。聞いたことのない英語の曲で、丁寧に単語を発音している。ご機嫌ですと言わんばかりに片膝をたて、放り出されたもう片方の足がリズムをとるようにゆらゆら揺れていた。古賀は手嶋の歌を聞きながら冷蔵庫に足を伸ばして、中からミネラルウォーターを取り出す。蓋をあけると一気に半分ほど飲み干した。

「それなんて言ってるの」

 なんとなく尋ねてみる。手嶋が歌うのをよして、にんまりと崩れた表情で古賀を見やる。

「あなたがいる今日はすばらしい、みたいな」
「じゃあ、もっとすばらしいことでもしようか」
「たとえば?」
「なんだっていいさ。なにしてほしい?なにがしたい?なんだってしてあげるよ」

 古賀はもう用のなくなったミネラルウォーターを冷蔵庫にしまうと手嶋に近づいた。手嶋の腕をとって立たせてやって、そのまま親子が散歩でもするような足取りでベッドへと連れ込み座らせる。

「ねえ、どうしたいの」

古賀があたたかな声で問いかける。手嶋の瞼がわずかに落ちる。意外と長い睫毛が、瞳を守るようにかぶさる。ぱちん、と薄い皮膚が瞳を隠す。古賀が瞳を柔らかく閉ざした瞼にキスを送ると、手嶋はくすぐったいというように身をよじって、くすくす笑う。薄く開かれた瞼の隙間、とろりと蜜を垂らしたように瞳が潤う。

「あいされたい」

たどたどしい声で手嶋が言った。古賀は「当然だ」と呆れたように返した。手嶋を組みしいて覆い被さる。首筋に唇を押し付けて、かき抱くように身体をくっつける。頭を撫でてやろうと髪に指を差し込んでから、古賀は手嶋の髪が濡れたままであることに気がついた。

「純太」
「公貴が乾かしてくれるなら」

手嶋がからからと笑った。

△△△ 

目が覚めて隣にあるはずの温もりがないことに気がついた。古賀は手探りで眼鏡を探しあて、視界を明瞭にしてからベッドを抜け出す。ベランダから音が聞こえたので、音を辿るようにベランダに出ると、古賀が予想していたとおりに手嶋がいて、サッシに肘をおき、頬杖をついてまるで夢物語のヒロインのように鼻唄を歌っていた。

「おはよう。なんの歌?」
「はよ。よろこびのうた」
「うそつけ」
「ほんとだって。今俺が適当に歌ってるだけだもん。だからこれはよろこびのうた」
「ココアでも飲む?」
「夜明けのコーヒーじゃなくて?」
「お前はココアの方が好きなんだろう」 

ぱちくり。手嶋が瞳を瞬かせた。ぼんやりとした声で好きだとこぼす。古賀は手嶋の声を聞いて、じゃあココアにしよう、と返してから手嶋に部屋へ戻るように促した。手嶋はいやに大人しく部屋にもどると戸惑いがちに口を開く。

「あの、あれやりたい」
「なに」
「鍋ココア」

最近やってなかったから、と手嶋はボソボソした声で続けた。古賀はそういえばそうだった気がする、と考えながらも「いいよ」と返してやる。手嶋の顔が途端に明るく、ちょっとやかましさを感じる風貌にかわった。

「牛乳沸かしてくる」
「行ってらっしゃい」

古賀よりもあとに部屋にもどったのに、古賀を追い越して台所へとかけていく手嶋を見送って、古賀は洗面所にむかった。

 古賀が顔を洗って、髭を軽く剃ってから台所にもどると、手嶋はコンロの前に、ご苦労にも椅子を引いてきて座り込んでいた。まだ温まらない牛乳はなんの匂いもたてていない。手嶋は椅子の上で胡座を組んで、鼻唄とともに右へ左へゆらゆら揺れる。

「嬉しそうだな」
「嬉しいからな」
「そんなにココア久しぶりだっけ」
「三週間は公貴の作るココアを飲んでない」

ふんわり、ようやっと牛乳の温まる匂いが部屋に広がる。「古賀!古賀!」とはしゃぐ手嶋を「はいはい」と宥めながら、古賀はマグカップとココアの粉末を用意しはじめた。

鍋ココアは、手嶋と古賀が一緒に住みだして四ヶ月というころに手嶋が作ったのが最初だった。親元を離れて二人して実感したことといえば、飲み物の不便である。実家では、ヤカンにお茶が、冷蔵庫に一リットルボトルのミネラルウォーターが入っていたし、お茶もミネラルウォーターもきちんとした周期でなくなっていた。それが普通だったものだから、いざ家を出るとお茶がない。ミネラルウォーターは一リットルじゃ中途半端に余らせて捨てるはめになる。お茶を自分で沸かしてたいたはいいが、ミネラルウォーターと同様に、変に余らせてはダメにする。洗い物もたまってしまうので、気づけばお茶を沸かさなくなったし、ミネラルウォーターは一リットルボトルではなく、五百ミリリットルボトルを段ボールでため買うようになった。電気ケトルを買って、粒状のお茶や、ティーバッグ、ココアの粉末を家におくようになった。飲みたくなったときに少しずつ。それが自然と定着してきた頃に、手嶋が鍋でココアを作り始めた。なんでも、お湯でとかすだけのココアなんて味がないという。牛乳を火にかけて砂糖を入れて、丁寧に作り上げたココアはいたく手嶋を満足させた。古賀には鍋も湯も同じようなものだったけれど。

 幾日かして、古賀がやけに機嫌の良い日があった。今ならなんでもできそうだと思えたし、手嶋になんでもしてやりたいと思っていた。だから古賀は手嶋に聞いた。

「なにかしてほしいことは?」

手嶋は答えた。

「ココアをつくってほしい」

 その時丁度、手嶋が牛乳を火にかけていた最中で、部屋には優しい匂いが満ちていた。

「砂糖を入れて、ココアをいれて、丁寧に混ぜてつくってほしい」 

 古賀はそんなことかと言いかけた言葉を飲み込んで、わかった、と笑んだ。もうしっかりと温まった牛乳に砂糖を入れて、ココアをいれて、丁寧に混ぜて作ってやった。ついでに食パンをトースターにいれて焼いてやり、バターを塗って机に並べた。

 手嶋はそれはもう喜んだ。俺が作るより美味しいといって喜んだし、でも俺が牛乳を温めるのがうまかったからだと得意気にしたし、公貴がつくってくれたってのがやっぱり嬉しいと頬を緩ませた。古賀はにまにまと愛想を崩す手嶋に吊られてか、これくらいならいつだって、と応えてしまう。純太が牛乳を温めるならオレはそれでココアを作ってやろうと言ってしまった。だから、鍋でココアを作るためには手嶋と古賀が揃ってなくてはいけないし、双方の同意が必要だった。古賀がマグカップを暖めながら手嶋にきいた。

「鍋ココアをなんで作ろうと思ったの」
「小さい頃絵本で見たんだ」

部屋には牛乳の甘い匂いが溢れている。

△△△


 春も近づき、空の色が薄く青く延びるようになってきた頃。お互い大学も春休みに入り、ゆったりとした日々を過ごしていた。

 そんなある日。古賀はとても機嫌が良かった。なんにでも優しくしてやれたし、なにより手嶋になにかしてやりたい気持ちで一杯だった。手嶋はベランダで洗濯物を干しながら鼻唄を歌っていた。いつか聞いた"しあわせのうた"とやらに似たメロディーが古賀の鼓膜を打つ。古賀はベッドに腰掛けたままで手嶋に声をかけた。空のすっきりとした青さが手嶋の髪を一層黒く見せた。純太、と古賀に呼ばれて、手嶋はちらりと古賀に視線をやるも、そっぽを向いてバスタオルを洗濯ロープにかけた。

「純太」
「待てったら。今のバスタオルで洗濯終わりだからそっち行く」
「いい。俺が行く」

 バスタオルをめくりあげて古賀が手嶋のもとへ向かう。裸足のままでベランダに出てくるので、手嶋はちょっぴり、ぎょっとしたけれど、すぐにニマニマとした表情になる。

「なに、甘えたいの?」
「甘やかしたいの。純太、なにしてほしい?」

 古賀が雨を降らせるように声を落とす。手嶋は、催眠術にでもかかったような様子でぼんやりと古賀を見上げた。地面が雨水を吸い込むような自然さで古賀の言葉を飲み込む。浮わついた声で手嶋がこぼす。

「あいされたい」

 手嶋の答えを聞いて、古賀がやんわりと瞳を細めた。右手の指の背で手嶋の右頬を撫であげてやり、そのまま頭を撫でて、左耳の後ろを擦ってやる。襟足をくすぐってから、いつかのように古賀が尋ねた。

「当然、とびきり愛してあげるよ。他には?」

手嶋の睫毛がふるりと震える。弱い風が、わずかに二人の髪を揺らした。

「ココアがのみたい、鍋のやつ」
「純太が牛乳を温めたなら。他には?」

 古賀はまた尋ねる。今までぱっちりと合わせていた瞳が、手嶋によってすれ違う。すとん、と俯いてしまった手嶋の頭を見ながら、他にもあるなら今のうちだ、と古賀が言う。手嶋はだんまりで、俯いたまま、顔をあげることもしなかった。時おり風がふくので、背後からバスタオルがはためく音がする。空はまだすっきりと青いままであった。手嶋の答えを待つ間、暇をもて余した古賀が鼻唄を歌う。手嶋が歌っていた"よろこびのうた"のようなものだ。古賀が歌うのに飽きたころ、手嶋がおそるおそるというように、ゆっくりと顔をあげた。ぱっちり、視線がかち合う。

「できるなら、ずっと公貴いたい、かな」

 手嶋の答えに、古賀は何度か目を瞬いた。手嶋の答えを、その意味をしっかりと考える。手嶋の視線がうろうろと泳ぐ。古賀が手嶋の答えをようやく理解した途端、思わず声を出して笑った。

「もちろん、喜んで」

 古賀は手嶋の腕をとり、干されたバスタオルをまるでのれんでも潜るようにわけながら部屋に戻る。いきなり引っ張られてか、手嶋が「わ、わ、」と声をあげた。ベランダ用のサンダルを慌てて脱いで、倒れそうになりながら古賀に続く。

「ココア、作ろう。牛乳温めてる間に歌ってよ」

古賀の言葉に、手嶋は心が満ちていくように感じられた。頬が無意識に緩むのもそのままにはにかんで答える。

もちろん、喜んで。



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