彼のことは詳しくはしらなくって、だからなんだかちょっと居心地が悪い。夏の大会で脚を故障した彼は未だ練習には参加できないらしく、オレとならんでベンチに座り、グラウンドをじっと見ていた。これが彼じゃなければもう少し会話があっただろうとひっそり思う。オレが彼について知っていることと言えば、捕手をやっていて、声が大きくて、三橋に言わせれば優しくて、泉に言わせればウザったくて、田島に言わせればすぐ怒り、よく聞くところで言えば性格が悪いらしい。それぐらいだ。なんら会話の種になりそうな情報はなかった。まさかいきなり沈黙を破って「性格悪いってきいたけど本当?」なんて聞くバカはいない。どれほどオレがバカだろうと、さすがにそれは、ない。

しようがなしに会話を試みることは諦めてグラウンドを眺める。今日はノック練習を付き合う話になっている。陽に乾かされた砂が舞って、すこし煙たそうだった。あともう少ししたらオレもあの砂ぼこりのなかに飛び込むのだ。見てると「ウワ〜〜」と思うものでも、いざやり始めればそんなこと気にならなくなるんだけど。

オレが入る前に一回水撒くのかな、なんて思っていると、ふいに彼から声がかけられた。「なあ」と記憶よりも静かにかけられた声に揺れそうになった肩をとどめて「ん?」と返す。グラウンドから彼に視線を移したけれど、彼は変わらずグラウンドを見ていたので目はあわなかった。ノック練習ですか。彼がいう。野球部はみんなオレにちょっとの気を使って敬語を使わないヤツがほとんどだけれど、彼はどちらともいえず、敬語のときとタメのときとがあった。図りかねてるんだろうか、と考えたこともあったが、前半の言葉は敬語で後半の言葉がタメになることもあるので、きっとあまり意識してないのかもしれない。オレは彼の言葉に「そうだよ」と返してやった。ここでやっと彼がグラウンドから目を離してこちらを見た。束の間、瞬巡したあとに口を開く。

「あー、故障したって聞いてたんですけど、どこやったんですか」
「……肘」

答えると彼は「ひじ、」と拙く呟いて自分の脚を撫でた。やっとあった目も視線は外れ、斜め下に投げられている。脚を撫でていた手のひらが彼の身体をするすると上がり、左肩にたどり着く。

「そうですか」

彼が何を知りたかったのかわからないままに会話はそれっきりで終わってしまった。



今日はバイトがなかったので部活が終わるまでずっと付き合った。以前に田島や泉が言っていたコオリオニなんかを見てちょっと驚いたりして。どうせなら一緒にかえっか、コンビニいこうぜ、歳上なんだから奢れよ、なんて声が上がって(最後のは言わずもがな泉だ)オレは初めてみんなと一緒に帰ることになった。

三人ずつぐらいでかたまって、ちょっとの疲労感を纏わせたまま話して帰る。オレの横にはなぜか彼がいた。やっぱり特に会話の種は見つけられず、無言のままで。

遠くにコンビニの明かりが見えたころに、あ、と横から声が上がる。どうかした?と問いかければ、いや、と濁された。うーん、どうしようか、なんて悩んでいると「聞いていいのかわかんねーンだけど」と前おいて彼がいう。

「なんで野球やめたんですか。ノック打てて、脚は故障してねーならできないこたねーだろ」
「あーそれね」

前置きのわりにストレートな彼の言葉に思わず苦笑が漏れた。よく聞かれたその質問にはいろんな答えがあった。別に野球をやめたのは怪我だけのことじゃなかった。例えばお金がなかったりとか、例えばリハビリの間に落ちた体力が戻せなかったりとか、例えばバイトができて制服なんかの学費が安くて入試もパスできそうな学校のなかで一番条件のあいそうなところに野球部がなかったとか、例えば朝の五時から夜の九時なんてほど毎日に余裕がなかったりとか。とにかくそういう些細なことがいくつもあって、だからこそ辞めようと素直に思えた。それは全部話すには冗長で、一つだけを話すには軽すぎて、だから一つ二つを知っている泉には怒られたし、友人二人には呆れられたりして、でも納得してもらったりして。

でも彼にはなんと返そうか、オレが野球をやめた理由は怪我以外にどれなら彼にわかりやすいだろうか、それを見つけるにはオレは彼を知らなすぎた。

「えー、っと」

頬をかいてみせるも、もう彼は答えを聞くつもりでオレの次の言葉を待っていた。どうしたもんかね、と悩んでいると前を歩いていた泉が「あー、そんなやつほっとけ」と声をあげる。

「体力がついてかねンだって、んなもん今からやりゃ戻るかもしんねーのに」
「えっと、ソーイウコトです」

泉の台詞にオレは便乗することにした。泉はオレが野球をやめたことや、またはじめようとしないことをまだ怒っているのだ。彼も、阿部も怒るだろうか。甘いこといってんな、なんて言われそうだと思ったけれど、反して、彼はベンチで並んで座っていたときと同じように「そうですか」と言っただけだった。





コンビニでみんながパンやラーメンを食べているのを横目にオレはなんとなくどこに座るかを決めあぐねていた。泉はさっきの会話でちょっと機嫌が悪いし、阿部の近くにいくのもなんだか気がすすまない。でも遠くにいくのも意識してるみたいで感じが悪いし。そうして結局、花井の横に腰を下ろす。泉も阿部も遠くも近くもない距離にいる。なんにも食べていないオレはみんなが黙々と食べ物を掻き込んでいるのをボンヤリとみていた。相も変わらず野球部はいい食べっぷりだ。続々と食べ終わった人が出てくると、だんだんと賑やかになってくる。

「そういやさぁ、阿部が浜田気にすんのめずらしいじゃん」
「は?なに」
「さっきの」

耳に入ってきたのは泉の声だった。食料を腹に納め終わったらしく、彼は蒸し返すように先程の話題をふった。ふられた阿部は「ああ」と納得がいったような顔をして、いやさ、ときっちり返す。オレはというと居心地が悪かった。だって、さっき聞かなくてすんだお怒りや諦念はわざわざ聞きたいものではない。

「気にしたってか、オレ脚やったろ。でも野球やめようってなんなかったからなんでかなって」
「阿部が野球やめるとか似合わねー」
「別にオレだけじゃなくってサ、榛名も一回やってるっつったろ。でもアイツも辞めなくて、じゃあオレらが辞めようっておもうときってどこだろって」
「コイツはやる気ねーだけだろ」

泉がいった。この台詞はオレが野球をやめたって話になるといっつも出てくる言葉だ。まったく間違ってるわけではないし、泉がオレに野球を続けてほしかったって気持ちもわかるからオレはこの台詞に弱くて、いつも言われるたびに「ごめんな」と胸中で告げる。言葉尻が強くなる泉に対して、阿部はいたって変わらず、ふうん、と声を漏らした。

「まあオレはちょっとラッキーっておもったけど」
「なにが」
「浜田が故障したのも、やる気ねーのも、ついでにいうと留年してんのも」

阿部の言葉にそこらで思い思いに話していたみんながシン、と静かになった、と思えばすぐさま声が上がる。「普通言うかァ?」と横から花井が疲れた声を出した。阿部ヒデー!なんてワァワァと騒ぐ周囲にも阿部はしれっとしていたけれど、なかなかおさまらないもんだから「うるせぇ!」と今日一番の大声で叫んだ。

「で?」

切り出したのは栄口だった。

「なに」
「なんでラッキーなの?」

栄口はイイヤツだともっぱら言われているがわりと変わったやつだ。オレは今知った。阿部は阿部で普通言わないことを言うけれど、栄口は栄口で普通聞かないことを聞く。いや、もしかしたら周りの空気を読んだのかも知れない。

「だってさ、怪我しなきゃ野球してたかもしんねーけど、そしたら応援団もチアもブラバンも全部ナシだぞ。新設の野球部でこんだけあんなんて恵まれてっし、ラッキーだろ」
「うわあ、」

さらっと答えた阿部に花井の嘆きが零れる。「んだよ」と眉根を寄せながら彼はなおも続けた。

「それに留年してなきゃ、泉とか三橋とかとクラスもちげーし、そしたら応援してやろうなんて思わねーかもしれねーだろ」
「でも人の怪我をラッキーなんて言うかァ?」
「桐青での応援つくりあげたのはコイツだし、集めたのもコイツだし、それは怪我しなきゃやってなかったかもしんねーじゃん、全部、怪我とか留年とかがあった浜田が作ったんだろ、アレは」

どう、っと音がしそうなほどに堂々と彼がいう。栄口は苦く笑い、「いや、でも」と花井は頭を抱えている。泉はもう興味も薄れたように携帯をいじっていた。オレはというと、なんだかおかしくって。

「──あはは!オレ、なんかすごい阿部のことよくわかった」

たしかに彼はヒドく性格が悪いし、でもたぶん優しくもあるんだろう。堂々と怪我も留年もオレがオレなりに悩んだいろいろを彼は「ラッキー」なんていって喜んじゃうくらいには掛け値なしにヒドイやつで、でも阿部にとっては他人であるオレの怪我も留年も些細なちょっとした良くないことも「オレにとってはよかったこと」だって掛け値なしに喜んでくれるくらいには優しいのだろう。きっと、とくに三橋なんかは彼のそういうところを「優しい」というんだろう。

思いっきり笑ったせいで阿部はすこし気まずそうにしていた。ちょっと吃驚した、と言ってやれば「一応言っていいかどうか考えたんですよ」と嘘か本当がわからないことをいう。それにまた笑いそうになって、けど、それよりもそろそろ傍らの花井が頭を抱えすぎて地面に額がつきそうで不憫だし、泉のオレに呆れたような視線が痛いもんだから、頑張ってグッと堪えることにした。


もう野球にはつかえない肘も、彼らのために伸ばされるのならそれは確実にオレにとってはラッキーだ。


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