少々狭く感じる学習机に数学の問題集を広げていた。失敗した、と思いながら東戸はシャープペンシルを数度ノックして芯を出す。数字と英字と日本語が混ざった問題文を眺めながら再度、失敗した、と思考する。提出は本日の四限までだということをすっかり忘れていたのだ。今はもう昼休みで、しかしながらその休みも三十分を切っていた。いつもであれば東戸はクラスの男子グループに混ざり談笑しているところだが、なんとか教師から今日中までならとリミットを伸ばしてもらっていた。やらなくてはいけないページはあと三ページ。計算問題は終わらせたので、あとは文章問題だけなのだけれど、残念なことに東戸は文章問題が一番苦手だった。しかも文章問題の次に苦手な証明の問題まで範囲に含まれている。東戸にはインクの染みが動くならばという仮定も、一見して三角形だとわかる図形が本当に三角形であることを長々と説明しなくてはいけない必要性もわからずただ頭を抱えた。手嶋に答えを写させてもらおうかとも考えはしたが、お調子者を感じさせるキャラクターに似合わずアイツは数学が得意でいて、さらに意外にも真面目なものだから、次に課題として言い渡される範囲までもきっちりと終わらせて提出をしているらしかった。教えてもらえばいいのだろう。しかしこれまた残念なことに手嶋は教室にいなかった。四限終了のチャイムと共に弁当箱を引っ付かんで教室を出ていったのだ。夏休み、インターハイが終わっても、手嶋はどこか慌ただしい。それどころか夏休み前よりも忙しなく、ついでにつけると浮き足だっているように見える。ちらりと教室にかけられた時計を見ると昼休みは残り二十分。五分前には次の授業の準備をしなくてはいけないので、実際は十五分ほどしかない。数学の問題集はちっとも汚れない。

東戸がうんうんと唸りながらも二ページにわたる証明問題をやっつけたころに、心なしか廊下が騒がしくなった。つられるように視線を向けると、久しく見ていなかった三角形を見つけた。思わず目を細める。あんまりにも懐かしくて、つい。窓際の壁にもたれかかって、懐かしい三角形をつくっている高さの不揃いな三人は賑やかに会話をしている。あいにく、教室もそれなりに騒がしいため、会話の内容までは聞き取れない。三角形をつくる一人は手嶋だ。くるんと癖のついた髪を揺らして笑っているのが見える。その横に立つ青八木も、唇がゆるく弧を描いている。目尻が柔らかく下がり、浅い皺がいくつか刻まれていた。二人とも髪がずいぶんと伸びた。もう一角を担う古賀は髪こそ短いままだけれど、一番時間の流れを顕著に感じさせた。背が伸びて、恰幅もよく、きちんと身体が出来上がった印象を受ける。あんなのがバレー部にいたら頼もしかったろうなと思ってしまうほどだ。東戸は手嶋と青八木と古賀の三人が作り出すデルタを見ながら、そうか、と息をついた。

別に、東戸は彼らと仲がいいわけではない。口を利かないわけではないが、喋るとしても社交辞令程度で、遊びに誘ったり、昨日の晩飯話で盛り上がるような仲は手嶋くらいだ。

中学の頃に手嶋はロードレースを辞めると言っていた。東戸にはよくよく関係のない話だったものの、手嶋が自転車から降りるという現実はどことなく胸を切なくさせ、やるせない心地になった。だから、身勝手な話、辞めてほしくないという一心で引き留めた。好きだろう、といって辞めるなよ、と告げたのだ。そういった後ろめたい個人的な我が儘を引いたとしても、手嶋がロードバイクに乗っているときは楽しそうに見えたし、好きなことを辞めるなんて悲しいからと考えてのことでもあったので、結局は手嶋を引き留めようとしたことにはかわりない。とにかく、東戸は手嶋にはずっと変化なく自転車と関わっていてほしかったのだ。
手嶋は東戸の言葉を受けて眉を下げた。失敗したことがはっきりとわかる笑みをはりつけて、強い声で辞めるんだと言いきった。互いに寂しさを抱えてこの話しは終わった。引き留められた気もしなかった。なのにどうしたことか、空が青く、戸惑い一つなく晴れ渡った春の日に、すこしばかり漂う雲を散らすような声で手嶋は言ったのだ。
「自転車やろうとおもう」
肌寒い春の日だった。東戸は真新しいブレザーごしに腕をさすりながら、そうか、と穏やかに返した。思い出せば記憶にあたらしく感じるようなそれは、もう二年も前の話だった。手嶋とは部活が別れてもそれなりに話をした。東戸は班を作ることがあれば主にバレー部の男友達と組んだ。手嶋は青八木と古賀の三人で班を組んでいた。けれど手嶋との仲が疎遠になることは不思議となかった。

人のことを言えたものではないけれど、みんな等しく幼さがあった。見てくれは古賀が頭一つ分飛び出してこそすれ、手嶋と青八木と古賀の三人が仲良く話しているときはきれいにデルタが作り上げられていた。三角形。東戸は時おりそんな三人を眺めるのが好きだった。視界の端に触れるたびに均等な距離だと感じる。この距離が、手嶋と自転車とを引き留めたのだろうとも。

三角形が崩れてしまったのは夏の真ん中だった。暦の上では一年もとうに半分を過ぎていたけれど、季節でいえばやっと二つ目のときをようやく終えようかと悩むころだった。今までは廊下で教室でと見かけていた三角形をまったく見なくなったのだ。おや、と思って東戸は手嶋に問いかけた。
「何かあったのか?」
手嶋は眉を下げて笑う。失敗したことがはっきりとわかる笑顔だ。のっぺりと貼り付いている。
「喧嘩した」
言ったきり、手嶋は唇を一文字に結ぶ。なんだかさびしい、と東戸は思うも、それも彼にはよくよく関係のない話だった。
関係は、ないのだけれど。
青八木と手嶋だけで作り出す図形は一直線。均等な距離で作られた三角形をつくるには点が一つ足りなかった。まっすぐの直線は手嶋の引き結んだ唇を思い起こさせて、東戸は見るたびにさびしくなる。
友達一人と喧嘩をしたからといって、なにかが急激に変わるわけではない。東戸が変わらずバレー部の男友達とつるんでいたのと同じように、手嶋は変わらず青八木とつるんでいたし、古賀は古賀でクラスの大人しそうな男グループに加わっていた。日常のなかから図形が一つ消えただけだ。

その図形を、また目にするとは思っていなかった。だからこそ、東戸は瞳を細めてそれをみる。きれいなデルタ、均等な距離だ。手嶋が表情も賑やかに口を動かす。自然な動作で古賀の広い背をトントンと叩く。すると、一拍して青八木が上体を折り曲げ、身体を震わせる。笑っている。手嶋は青八木の背もトントンと叩く。古賀が眉間に皺を寄せてなにかを言う。唇が動く。残念ながら声は届かないが、よほど面白いことを言ったようで、手嶋が大きな声をあげて笑った。
「あはは!」
つられてか、もともと笑いをこらえるように身体を震わせていた青八木が、立っていられないとでもいうようにしゃがみこむ。二人の様子に古賀はむすくれた。大きな手のひらをグッと丸めるも、それを振りかざすことはしない。ただ、なんにもしないのも癪なようで、握りしめた拳の力をわずかに弛めて、人差し指の第二間接で扉でもノックするように。コンコン。手嶋の旋毛と、それからわざわさ身を屈めでまでして、へたりこんでいる青八木の旋毛を小突いた。もちろんそんなことでは二人の笑いは収まらなかったが、古賀の気は済んだようだった。眉間の皺はすっかりなくなり、かわって目尻と口許に。

東戸はぼんやりと三人を眺めていたけれど、ジジ、とノイズの音が耳に届いてハッとする。三人から意識をはずし、時計へと目をやったところで、キンコンとチャイムがなった。授業がはじまる五分前だ。東戸は時計からも視線をはずし、目線を下げて問題集を見る。なんとか二ページ、終わらせはしたけれど、あと一ページが残っていた。東戸の一番苦手な文章問題だ。一ページ丸々使っているくせに、問題は二つ。長ったらしい文章をさっと読む。
『問1 毎秒違う速さで移動する三つの点がそれぞれ湖を周り、ちょうど正三角形をつくるのに必要な時間を求めなさい』
『問2 正三角形ができた状態からさらに移動し、湖を2周したあとに再び正三角形をつくるのに必要な時間を求めなさい』
くらり、と目眩がした。逃げるような心地で先ほど眺めていた三人を見やると、それぞれが手を振って自身の教室へと戻っていくところだった。さっぱりと別れを告げたあと、手嶋も教室に入り、自分の席に。つまり東戸の前に戻ってくる。
「あれ、まだ終わってねーの?」
「苦手なんだよ」
「あとちょっとじゃん」
「お前なあ。まあいいや。それよりどうしたんだよ。喧嘩してたんだろ」
手嶋のからかいを避けながら東戸が尋ねた。手嶋は机の引き出しから教科書を漁りながら上機嫌を隠しもせずに言った。
「仲直りした」
「そりゃよかった、えらく楽しそうだったな」
「そお?でもまだ肝心な話は終わってないから次だな」
「ふうん」
相づちをうつ。問題集に関してはもう諦めが顔をだしていた。三角形をつくるために必要な時間なんて東戸には知ったことではなかったし。いいや、知ってはいた。東戸は数瞬思考し、もうすでに芯のでているシャープペンシルを二回ノックした。
三角形が崩れたのは、ちょうどこれくらいの時期だった。暦の上では一年も折り返し、幾日か過ぎたころで、季節でいえばまだ二つ目を終えるかどうか悩ましいころだった。まるであの日がそのまま繋がったみたいにびたりと当てはまる今日から数えて、あの日はちょうど二年前の話である。ぽっかりと異様に空いた空白に、雑な字で「二年」と書き込む。
そうして、また三角形を作り出すのは次の休み時間だから。

馬鹿らしい。なんて思いながらも、東戸は問題集を閉じた。どうせ真剣に考えて答えを書いたところで正解する自信もなかったし、これでいい。提出さえ済ませればいいのだ。机のなかにしまいこんで、次の授業の準備をする。授業が終わったら問題集を出しにいこう。それから、きっと先ほどのように廊下で話すのだろう三人が、もしきれいに三角形を作り上げていたならば、さっきはなにをそんなに笑っていたのか尋ねてみよう。

当然、均等な距離でもって作り上げた三角形は崩さないように気を付けて。



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