阿部隆也は幸せではなかった。かといって今が幸せなわけでもない。不幸でないだけだ。隆也は、こんな名前だけれど女だった。そうして女だけれど野球が好きだった。観戦者としてではなく選手として。親が野球好きなこともあって、二歳で硬球を転がし、三歳にはすでにグローブを握りしめていた。はじめてキャッチボールをしたのは五歳。その頃まで隆也は自分がこれから先、野球を生活のひとつに組み入れていくのだと信じて疑わなかった。だから小学生に上がったとき、女を、それもまったくの幼い自分を選手として迎え入れてくれるような環境がないことに愕然とした。探せば女子野球チームだってあっただろう。しかし阿部隆也には弟がいた。わざわざ隆也を女子野球にいれなくとも、弟が野球をするのだから親の欲求は満たされた。弟がリトルに入っても、隆也は野球チームに入ることは叶わなかった。

隆也は親譲りのたいそう頑固な性格をしていたものだから、野球がしたい、という自分の欲に逆らうことはなかった。親に毎日毎日野球がしたいといい続けてやっとシニアにいれてもらえたのは小学二年生のときだった。親の伝で混ぜてもらったチームは意外にも大きなところで隆也は驚いたけれどそれ以上に嬉しかった。最初はマネージャー業務からはじめた。選手が多かったこともあって、あぶれた選手の柔軟や、ノックを手伝うこともあったし、投手が増えてきたからと捕手の基礎も教えてもらった。ブルペンに入ることが増えて、隆也は捕手が好きになった。それでもやっぱり女であったし、隆也がはいったシニアは男が野球をするチームだったから試合には出られなかった。隆也はそれが悔しかった。不満などではなくて、ただ心底悔しかった。名前ばかりが思わせ振りで、自分が女であることがどうしようもなく歯がゆかった。

シニアで野球を続けて7年目、試合にこそでなかったけれど、グラウンドの整備から柔軟、走り込み、基礎練やノックも一緒にするようになっていたし、誰も隆也を女の癖にと見下したりはしなかった。ブルペンでは正投手の壁をすることもあったし、ミーティングにも顔を並べた。そんな頃に一人の男が新しく入ってきた。榛名元希という男だ。ものすっごくオレサマで、ものすっごくエラソーで、ものすっごく横暴で、ものすっごく理不尽で、でも魅力的な投手だった。榛名は爆弾を抱えているらしく、最初のうちは隆也がバッテリーとして組むことになった。榛名は隆也を一瞥して「女が的じゃ満足に投げらえっかよ」と吐き捨てた。それまで女だ男だという理由で見下げられたことのなかった隆也はひどく驚いて、ついでムッとした。このチームは隆也の捕手としての能力をきちんと認めてくれていたから、余計に。

紆余曲折あって榛名が来てから半年が経った。榛名と隆也はお互い顔をみればがなりあったけれど、初対面のときより随分と気のおけない仲になっていた。榛名は試合にも出るようになっていたが、ホンキの球は隆也にしか投げなかった。そのことは隆也にとって誇りにも成り得たけれど、不満でもあった。隆也はチームが大事だったし、好きだったから、榛名にはチームのために投げてほしかった。彼のホンキの球は正捕手にとれなくたって、十分な牽制になるし、彼はコントロールのいい方ではないから球速の違う球が一球あるだけでグンと捕手が助かる。なのに彼は自分の身体の具合もあってホンキで投げることはほとんどなかったし、あってもブルペンで隆也相手。試合ではない。それどころか球数制限に細かくて、試合の途中でマウンドから降りることも数えきれないほどにあった。隆也は榛名のことを最低だと感じた。まるでチームのためのエースではなく、エースのためのチームのようで、野球というスポーツそのものがバカにされているようだった。

また紆余曲折あって、榛名と隆也は別離したけれど、再開した。それは高校で入った部活の一貫で関東ベスト8の試合を観戦にしたときだった。

隆也は中学卒業と同時に野球をやめようとしたけれど骨に染み込んだ野球という競技がどうしても捨てられなくて、野球部が新設するという西浦に入った。藁にもすがる気持ちで入った西浦は監督が女ということもあり捕手の役割は簡単に手に入った。さすがに試合には出してもらえなかったが、その分、初心者の西広を鍛えることに隆也は尽力した。武蔵野に入るつもりなんて毛頭なく、榛名と関わるつもりもまたなかった。隆也は自分の中の野球を組み立て直したかったから。けれど、また出会ってしまった。事故だと思った。野球をつづけていれば、同じ関東ブロックなのだからまったくあわないわけはないだろうが確率としては低いと思っていた。野球部というのは星の数ほどあるのだから。

久しぶりにあった彼は、やはりチームを背負っていたけれど、隆也の知っている彼とは少し違っていて「ああ、乗り越えたのだ」と思った。自分を置き去りにして、彼はさっさと進んでいってしまったのだと。隆也と榛名はバッテリーを組んでいたすこしの間。榛名が試合に出られない、ほんのちょっとの期間、傷をなめあっていた。抱き締めて、お互いが情けを押し付けあうようにしていた時期があった。けれど、もうそんなのは遠いむかしで、その証拠に榛名は今のチームをとても大切にしていて、立派にエースをしていた。隆也だけがまだ歯がゆいまま、悔しさを抱えたままで立ち尽くしていた。だからだろうか、隆也は榛名を見ていたくなかった。しかし榛名は違ったようで、事故のように出会ってからというものの榛名は隆也と連絡を取りたがった。贔屓にしていた野良猫が姿を見せなくなったと思えばまた見かけるようになったのと同じような心境なのだろうと思ったし、きっと間違いではなかったと思う。榛名は隆也と連絡を取り、たまにマックやモスに連れ出しては傷を舐めあい抱き合った女を相手に、今 彼が恋をしているらしいマネージャーの話をした。どうやら明朗快活ですっきりとした顔立ちの美少女らしい(まるでマッチのCMにでも出ていそうな)彼女は、チームのキャプテンと恋仲であるらしいと榛名は机と仲良くしながら言った。キャプテンのことも大事だから二人がうまくいっているのは嬉しくて焼くに焼けないのだと喜色をにじませた声で隆也に話した。隆也はいつも繰り返される榛名の色話を決まってブラックコーヒーで飲み干した。

やっぱりまた紆余曲折会って、榛名はプロになった。隆也も大学に入ってからはすっぱりと野球をやめたが、スポーツ医学や整体の授業を熱心に受講する程度には熱は持続していた。隆也が大学三年になり、榛名がプロ四年目となったとき、隆也のマンションに榛名が転がり込んできた。かとおもえば、その半年後に隆也がすんでいたマンションの四倍はしそうなマンションを借りて、なんと隆也の荷物もろとも引っ越してしまった。驚いた隆也が榛名に詰め寄れば、榛名はけろりとして「お前もこっちくンだろ」と言ったのだった。隆也は榛名に驚かされてばかりだったけれど、これにはさすがに言葉をなくした。絶句している間に隆也の借りていたマンションは引き払われ、隆也の住所は榛名が新しく借りたマンションへと変更された。

隆也が就職ではなく、院に進学したころ、榛名は日本を代表するプロ野球選手になっていた。ある日の昼下がり、隆也が大学から帰ると、マンションには榛名以外の人がたくさんいた。二人だけでは広すぎるリビングが窮屈に感じられるほどだった。榛名と同じチームの選手が三人と、やけにけばけばしい女が四人。合計八人がテーブルを囲んで、ピザやら肉やら米やら魚やらサラダやらをつつき、酒を干していた。もうすでに出来上がっているのか床には空のワインボトルとアルコールの缶がいくつか転がっていて、またしても空になったピザの箱が三箱積まれていた。榛名だけが素面だったようで、帰ってきた隆也を見つけて眉を下げる。帰れってオリャ言ったんだぜ、と唇が動いたのは読み取れたけれど、肝心の声はケバい女集団のキャハハという声に掻き消されていた。この時、この瞬間、隆也がいつもの隆也であれば「片付けちゃんとしてくださいね」と一言添えて風呂で湯を浴び、隆也自身にあてがわれた部屋へと足を向けただろう。しかし不幸なことにこの日隆也は疲れていた。連日のレポートラッシュにゼミラッシュ、また季節は初夏。新しく入ってきたゼミのメンバーがやっと馴染んできたころで、つまりは歓迎会が立て続けに行われ、あまり眠れない日々が続いていた。寝不足と疲労が溜まっていた隆也の頭に女の笑い声はよく響いた。キンキンと突き刺すような音程がひどく気にさわって、どうしても抑えられなかった。榛名以外は隆也に気がつく様子はまったくなくて、それも無性に腹が立った。思わず隆也は肩にかけていた鞄を床に乱暴に叩きつけた。たくさんの教材と資料が入った鞄は、ダンッと大きな音をたて、室内にいた全員の視線を集めた。

「すっげえ、ウルセェ」

腹の底から出して重低音は、悲しきかな酒が入った酔いどれに効果はなかったようだった。男の一人が「オンナか」と榛名にたずねた。「お前が呼んだにしちゃあ、えらく毛色の違う。ああデリヘルか?趣味が外れたなあ」と笑う。榛名がますます困った表情になった。女の一人がまたキャハハと笑った。

「違いますよ〜今日みたいな日に呼ぶ子なんて本命に決まってるじゃないですかぁ、デリヘル呼ぶくらいなら私達のなかの誰か誘えばいいんだから、」
「まあ、おまえらも榛名へのプレゼントのつもりではあったんだけど、こいつ全然手も出さねーし、飯も奢りだってンのに飲まねーし」
「初なのかとおもってましたよ、榛名選手に抱かれるんだって今日すっごく気合いいれてきたのに、わたし」
「初なもんかよ、こいつ店いったら大体食い散らかして帰りやがる」
「えーーわたし、食い散らかされたかったぁ」

群衆がわいわいとはしゃぐ。隆也にはもうそのすべてが不快だった。デリヘル扱いも、下世話な話も、甲高い女の声も、大きな男の声も、どうしようもなく困り果てた榛名も。

「元希さん」
「タカヤ、これは」
「別にここはアンタの家です、アンタが好きに使えばいいし、こっちを気にするこたぁ、ねぇです」
「えっと、タカヤとりあえず聞け」
「聞きたいことなんてないんで、デリヘルでも本命でもないんで。ただ騒ぎすぎるのはやめてください。あとヤるんなら外でヤってこい」

言うだけ言って、隆也は踵を返した。風呂もシャワーも億劫で部屋にもどってベッドに潜り込んだ。疲れがたたって目が覚めたのは夜中の十時だった。すっかり静かになった空気に一息ついてリビングの戸を開ければ、ソファーに一人、ぐったりというよりはしょんぼりという風情で榛名が腰かけていた。

「みんな帰ったんですか」
「帰した」
「なんでまたあんなどんちゃん騒ぎ」
「あー……その、オレの誕生日祝いだって」
「……誕生日?……誕生日!!?」

はっと気がついてカレンダー見ればたしかに今日は榛名の誕生日だった。あと二時間で終わってしまうけれど。一応、住まわせてもらっている身として隆也は榛名にオメデトウと祝福を贈れば、榛名は「ン、どーも」とそれを受け取った。すっかり忘れていたと正直に告げると、ンなこと知ってたと榛名はいう。

「知ってたけど、でもタカヤがはやめに帰ってくるってのも知ってたから、うまい飯でも食ってゆっくりすっかって思ってた」
「てか、アンタ彼女とかつくらないんですか。ヒトを拉致ってねーで、いい人できたらこっちも出ていきますし」

隆也の言葉に、榛名は目を真ん丸にして何かをいいかける。けれど結局はなんにも言わず、左手で髪の毛をかきむしって、ソファーにぐでんと倒れこんでしまう。隆也はそんな榛名を横目に榛名の好みのタイプを思い返していた。高校の時分にあきれるほど聞かされたマネージャーの話だ。明朗快活で、さっぱりとした、気の強い女だ。きっと、さっきの騒いでた女たちも榛名の好みを考えられた人選だったのだろうし、もとより日本を代表する野球選手となった榛名がその気になれば落ちない女なんていないようにも思えた。だから榛名に言ったのだ。

「アンタがその気になれば女なんてすぐ落とせるでしょう」
「じゃあタカヤ、はやく落ちてこいよ」

榛名がそんな台詞を返してくるとも思わずに。ハァ?と思考停止を物語る隆也にかまわず榛名はなおも言い募った。なぁ、なぁ、とねだるように。



それから、また、紆余曲折あって数年。隆也は無事大学院を卒業し、榛名は未だプロ野球の前線で活躍している。借りていたマンションは引き払って、家を買った。そう広くないし、一等地でもないが、人が二人暮らすには広すぎる家だ。テレビを賑わせるニュースは、進まない国会、野球の成績に加えて、榛名元希投手の電撃入籍について。どの局にチャンネルを切り替えても、きゃあきゃあと高い声をした女子アナが榛名の投球モーションのVTRを背に祝福を贈っている。隆也はうんざりしてテレビの電源を切り、手元に集中する。細かい作業は苦手だがやらなければ終わらない。

隆也の目の前には、うずたかく積まれた招待状の山と、大量の切手シート。これらをすべてゆがみなくきっちりと貼り付けなくてはいけないのだ。ハァ、とため息を落とす。どこで間違ったのだろうかと考える。考えたって仕方がないし、これは逃避だときちんと理解していた。結婚するつもりなどなかった。ただ紆余曲折あったのだ。いろいろと、あったのだ。

阿部隆也は幸せではなかった。かといって今が幸せかと言われたらそうでもない。不幸ではないだけで、そこに起伏はないように感じる。この平坦さが幸せだと気がつくのは、またいくつかの紆余曲折を経てからになるのだろう。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -