彼のことを知らなければ二人は見ず知らずの他人なのだときっと秋丸は勘違いした。コンコースのベンチでタカヤくんと会った。彼に気がついたのはもちろん傍らにいた榛名だった。榛名は「タカヤ!」と声をあげて彼に駆け寄ると、ちょっと詰めろと促して彼の横にどすんと腰かけた。「オメー電車こっちじゃねーよなァ」と榛名が言えば彼はちょっとの間をおいたあとに「まあ」と返事にならない言葉をおざなりに返した。タカヤくんがズボンのポケットから携帯を取り出してディスプレイをみる。時間を確認したのかもしれない。榛名はタカヤくんの返事でもなんでもない答えにとくに怒る素振りも見せず「ほーん」と相づちのようなものを返して終わった。彼ら二人の会話はそれっきりで、はたから見ていればまるで真っ赤な他人のようだった。まさか一年間もバッテリーを組んだ仲とは思えなかった。結局、秋丸と榛名が乗る予定の電車が来るまでお互い黙りのままで会話などなかったし、榛名が秋丸に話しかけてくることもなかった。電車を待っていた時間は五分にも満たなかったと思う。しかし秋丸にはずいぶんと長い時間のように感じられた。なめらかに停車した電車をみて榛名は立ち上がるが、タカヤくんは座ったままだった。おや、と思ったのは榛名も同じだったようで「オメーは?」と彼に尋ねている。タカヤくんは「人待ってるだけで、電車には乗らねンで」と素っ気なく言った。榛名も「ふーん」と素っ気なく返してさっさと電車に乗り込んだ。こんなにもよそよそしくても、この二人は一年以上も前の話ではあるが、バッテリーを組んでいた二人なのだ。

秋丸にはタカヤに対して負い目があった。別に彼を昔いじめていたとか、連帯保証人になってもらったとか、ちょっとした事故が起きて助けてもらったときに彼が怪我をしたことがあるとか、そういう類いのものではないし、そもそも秋丸がタカヤくん自身になにかをしたわけではない。先ほどの例えはあながち外れてはいないが、負い目、というか。ちょっとした借りのような。

青空の下で榛名のボールを受けながら、秋丸はこの間のタカヤくんと榛名の様子を思い出していた。榛名とタカヤくんの邂逅に居合わせたのはなにもあの時がはじめてではない。たしかあれで三度目だった。パンッ、とミットが鳴る。秋丸はカウントを榛名に伝えることもなく返球した。前にカウントをひとつ間違えて榛名に深々とため息をよこされてから余計な世話は焼かないことにしている。榛名の左手から放たれる豪速球はちゃんと構えたところに収まる。それは秋丸自身が榛名の球に反射的に合わせているところもある。もしこの球がミットからぽろぽろこぼれようものなら、ましてや身体に当たろうものなら秋丸はここには座っていなかったのかもしれないとよくよく思うことがある。タカヤくんはどうだったのだろう。タカヤが榛名とバッテリーを組んでいたときの試合風景を秋丸は知らないでいた。あの頃の榛名はあんまりにもおっかない顔をしていたから避けていたところがあって、ゆっくり元に戻っていったときだって野球の話題は遠慮していた部分があった。あのときの榛名は存在そのものが「おっかなかった」のだ。一番最初に榛名とタカヤくんが話しているのをみたとき榛名は「球がとれなくて身体中アザだらけだった」といった。これでもかとけたたましく風を切る音のあとパンッ、とミットが鳴る。受け止めた右手の爪が震える。秋丸は榛名に返球しながら、これが身体に当たるとなるとそりゃ「おっかない」話だなと思った。

秋丸には昔、自分の手に終えなくて押し付けた榛名がいじめていたかもしれない、榛名の世話という連帯保証人にのような真似を無理に押し付けた形になった、事故のように故障した榛名を助けてくれたときにもしかしたらちょっとばかし怪我をしたのかもしれない、そんな"タカヤ"に対して借りのような負い目があった。

榛名という男は自分ばっかりの男で、でもそれが許される人間であった。故障したあと周りの人すべてに振られ避けられはしたけれど、決して嫌われることはなかったのは故障するまでの榛名の人間性によるところだろうと秋丸は考えている。榛名はとことん陽の人間だった。小さな頃から榛名に振り回され、王様と従者のような関係だと周りから揶揄されるくらい秋丸は榛名に振り回されていた。実際はとくべつ王様と従者というわけでもなければもちろん奴隷のようなものでもなく秋丸と榛名は対等だった。だから喧嘩もしたし、仲直りもした。榛名は運動神経の良い子供で、サッカーやバスケットボールや中当てといろいろな遊びに秋丸を付き合わせたけれど、キャッチボールが気に入ってからはそればっかりになった。ある時、秋丸は榛名と大きな喧嘩をした。理由はなんだったか今では思い出せないが一週間ほど二人は口を利かなかった。いつもは秋丸が「しょうがない」と折れるか、榛名が「だぁもう!」と声をあげてなあなあにするのに今回ばかりは二人ともが譲らなかった。幕を下ろしたのは榛名だった。秋丸が自室でさんすうドリルを黙々と解いていたときに部屋の扉がけたたましく開かれたと思えば、野球ボールとクラブをもった榛名が「キャッチボールすんぞ」と言ってのけた。秋丸は別に運動神経が良い子供ではなかった。まったく、からっきし、というわけではないが、そもそも体を動かすことが好きではない。嫌いなわけでもないけど、本を読んだりゆっくり過ごす方が好きだったりする。今までしてきたサッカーやバスケットボールや中当ても、今やそればっかりのキャッチボールだって好きなのは秋丸ではなく榛名だ。だから、榛名のキャッチボールの誘いに秋丸は眉を寄せた。第一お前とは喧嘩の最中だろう遊びたいなら他を誘えと思ってのことだった。しかし榛名の様子を見た秋丸は淀んだ水が澄むような心地を覚え、知らず笑みをこぼして言った。しょうがないなあ。榛名はいかにも緊張を表した風で、こちらをみるのも一苦労、肩をすこしばかりあげてそわそわとしていて、きっと榛名なりの「ごめん」だったのかもしれないとわかったから。

榛名が教室でぶう垂れていたのは夏が終わり秋大会へ向けて練習を詰めている時期だった。はじめはてっきり先輩方が卒業するのに駄々をこねているのだとばっかり思っていたけれど、どうやら違うらしい。榛名は机と仲良くしながらも携帯のディスプレイを眺めては舌を打ったり息を吐き出したりしている。

「どうしたの」
「タカヤが」

またか、と秋丸はほんのちょっとうんざりした。シニアにはいって元に戻りつつあった榛名は口を開けばタカヤタカヤと言ったけれど、シニアを卒業すると彼の名前はまったく聞かなくなった。関わりがなくなったから話す内容がないと言えばそれまでだけれど、武蔵野に入っても、二年にあがって新入生が入るころになっても秋丸は榛名からタカヤくんの名前を聞くことは一切なかった。あんまりにも話題に上らないので秋丸は一年ほどタカヤくんの存在を忘れていたし、榛名だってあのとき球場でタカヤくんを見つけるまでは忘れていたに違いないと勘ぐっている。その勘はまるっきり外れているわけでもないだろう。なのに、あのときタカヤくんを見つけてからというもの、榛名はしきりにタカヤタカヤと彼の話ばかりだ。別に構いはしないのだけど、正直なところ秋丸には「またか」以外の感想がわかない。すっかり呆れている秋丸をよそに榛名は続ける。

「あんにゃろ、メールも電話も全部無視しやがんだぜ」
「まあ、彼も忙しいんじゃないかな」
「てかよお、ちょっと会わねー間にすっげシラネーヤツみてえになってて、アイツほんっとスゲー口うるせンだよ、だのにあんな」

ちょっと驚いた、と榛名が寂しそうにこぼした。榛名にしては小さな声だったので秋丸の方こそ驚いた。なにか声をかけようと考えたがタイミングがいいのか悪いのかキンコンとぼけたチャイムがなってその話はそれきりになった。

榛名とタカヤくんはついこの間、一応だけれど和解していた。榛名ばかりがすっきりしたようにも見えたがタカヤくんもどこか思うところがあったのだろう、話のあとはずいぶんと穏やかに見えた。ごめんもありがとうも榛名はきちんと伝えていて、キャッチボールに誘うしか術のなかった子供とは違っていた。小さな頃の秋丸と榛名の喧嘩よりはよほどちゃんとした仲直りだった。だからこそ榛名はタカヤくんが電話もメールも無視することが気にくわないのかもしれないし、見るからに拗ねて、ほんのちょっと傷ついているのかもしれない。故障したときが異常だっただけで、正常な榛名はとことん陽の人間であるから、榛名はタカヤくんと純粋に仲良くしたいのだろう。それにしても秋丸には「タカヤが別人みたいなってた」という一言がなんだかおかしくてならなかった。あの頃の榛名しか知らないタカヤくんにしたら「今の榛名は別人だ」と言うに違いないからだ。本来のタカヤというものを秋丸は知らないけれど、別人同士が居合わせたのならそりゃあ赤の他人のように白々しい空気をまとって電車を待つのも頷けよう。

昼になっても、部活の終わりになっても榛名は携帯のディスプレイを眺めてぶう垂れていた。曲がりなりにもキャプテンがこれではいけない。秋丸は知れずため息をひとつ落として榛名を助けてやった。

「電話もメールもダメなら会いに行けばいいんじゃない。たしか西浦って遅くまで練習はあるんでしょ。今からいけばさあ、ちょうど終わる頃にかち合うんじゃないかな」

榛名はすこしだけ考えるそぶりをして、いやちょっと待つだろ、と苦言をこぼす。仕方がないんじゃない?と言えば、じゃあお前もきて暇つぶし相手になれと言う。その時の榛名の様子がいつかの幼い榛名とまったく同じだったので、秋丸は簡単に折れてやった。

暗くなったころに西浦についた。すれ違ったかもしれないと不安に思ったのも束の間のことですぐにわいわいと控えめに騒ぐ集団がこちらに歩いてくるのが見えてホッとした。集団の中の一人が「あ」と声をあげる。彼らの表情ははっきりとは伺えないが空気が僅かばかり緊張したのがわかった。歩みが止まることはなくすぐに距離は縮まった。「ちわ」と口々に挨拶される。騒ぐ声が控えめだったのは疲れていたからだと近くまできて気がついた。秋丸と榛名の前で立ち止まった集団は榛名の様子をうかがうように黙った。でも榛名もなんにも言わない。しびれを切らしたように集団の中から一人、気だるそうに出てきた。タカヤくんだ。

「なんでアンタがいるんスか」

記憶にあるよりも低い声が言う。夜の暗さによく馴染む声だった。隣にいた榛名が浮わついた声で「ワリィかよ」と返すと、先ほどの声が「悪い悪くないじゃなく普通にギモンでしょ」と答えた。田畑に囲まれているせいかリーリーと虫が鳴いている。

「榛名さん」
「……オメーさ、キャッチボールすんぞってオレが言ったらどうするよ」
「はぁ?」

秋丸には「キャッチボールに誘う」ということが、榛名なりの(それも最上級の)仲直りの打診、もしくはコミュニケーションの類いであることを知っていたのでおかしくてしかたがなかったのだけれど、タカヤくんが心底わけがわかりませんといった風だった。仕方がないとはおもう。いきなりちょっと距離のある他校まで来ているだけでも「普通にギモン」であるのに、そこにさらに「キャッチボールするとしたら」とくるのだから。タカヤくんの困惑を知ってか、はたまた「知らない人間のような相手」だからかは定かではないが、吐き捨てるように寄越された言葉に榛名は怒る様子を見せなかった。それどころか辛抱強くタカヤの答えを待つ姿勢さえ見せた。タカヤくんもそれに気がついたのか、イヤイヤ、と口の中だけでモゴモゴと呟いて、それから大きくため息を落として榛名を見る。腹を決めたといわんばかりの表情で。

「もうオレはね、アンタの捕手でもなけりゃましてアンタんとこの選手でもねーんですよ」
「おお」
「そりゃあアンタ、まあ前からそういう人ではありましたけど失礼でしょう」
「うん」

榛名はえらくお利口さんの表情でタカヤくんの言葉に頷いた。それにアンタはもうただの投手ではなくて主将でしょう、それにアンタは知らないかもしれないですけどねオレは一応副主将らしいんです、あとウチのエースはやたらと気にしすぎのきらいがあるんですよ。タカヤくんが淡々と述べるのに、榛名はうん、うんと大人しく返した。だよなぁ、と寂しげな榛名の声が落ちて、それがまた「じゃあもうどうしたらいいんだ」と告げているようで無性にかわいそうにおもえた。どうやらタカヤくんにも同じように思わせたらしく、彼は殊更深くため息をはいてよこして「でもね」と繋ぐ。

「まあ、飯くらいは、いいんじゃないですかねえ」
「……そっか」
「そうです」
「そうかあ」

にっこり、榛名が笑った。まったく幼子さながらの表情だった。タカヤくんの言葉を待つ間はどこで覚えてきたのか大人の真似事のように辛抱強かったくせに。秋虫はまだリーリーと鳴いていた。すこし沈黙が落ちればやけに耳についた。タカヤくんが虫の音に混ぜこむみたいにそっと「もうウラんじゃいませんよ」というと、榛名はまた「そっか」と頬を緩ませた。

次の日、榛名はすっかり元気で机と仲良くしたりはせずに、にかにかと快活な表情をみせていた。いわく、タカヤと飯行くことンなった、そうで。オレはやっぱりちょっとうんざりしながらも「そりゃあよかったじゃない」と返事をした。榛名に言わせればタカヤはまだまだ別人みてーだけど、タカヤには違いねーかンな、とのことらしい。きっとタカヤくんもちょっと離れた、けれど同じような教室の風景のなかで同じようなことを言っていることだろう。秋丸には榛名の言うタカヤを知らないし、タカヤくんが一心に向かい合っていた榛名を詳しく知らない。それにまだまだタカヤくんには負い目がある。それどころか榛名に関する借りはきっと増えていくだろう。榛名がタカヤくんの名前を出せば「またか」と考えるし、ちょっとうんざりする。そのことで喧嘩になれば、榛名は秋丸をキャッチボールではなくご飯に誘うようになるのだろうし、秋丸はしばらく迷ったふりをして折れてやるだろう。

秋丸はこっそり、ひっそりではあるが、榛名とタカヤくんの関係がゆるく長く続いていけばいいと願っていた。それがどんなに二人にしかわからない関係であっても、だ。




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