オレのどこが好きなんですか、と尋ねると手嶋さんは悩むそぶりも見せずに「顔」と応えた。顔だけなんですか、と問いを重ねれば彼はあどけない表情で、それでいて不思議そうにしながら「うん」と返す。顔ってあんたね、とちょっと面白くなく感じてむきになって「オレも手嶋さんは顔がすきです」と言うと、手嶋さんはみるみる頬骨をあげて、眉尻さげて、あははと声をあげて「そうかお前はオレの顔がすきか」と嬉しそうにした。もっとも付き合うようになったきっかけは、厳密に言えばたぶん顔で間違いないのだ。 ぐっすりと眠った日が三回あった、朝も昼も夜も暑い夏の終わりのことで、よく眠れた日の夢には必ず手嶋さんが出てきたのだ。もちろん夢のなかだけでなく部活のときもちょっと世話になっていた。今ほしいなと思ったタイミングでポカリを渡してくれたりとか、汗が邪魔だなと思ったときにタオルを投げてくれたりとか、その程度のことではあったけれど、その程度が少しずつ積み重なった。無意識に手嶋さんを探すようになって、無意識に手嶋さんを見つめるようになって、視線に気がついた手嶋さんがこちらを振りかえるようになって、手嶋さんがオレを見つめ返す瞳に湖をみつけて、無意識にすきなった。手嶋さんの瞳に広がる湖がやけに凪いでいた午後三時、オレは手嶋さんの手をつかんで、手嶋さんが積み重ねていったものを捨てるように言葉を落とした。 「オレ手嶋さんのこと好きですよ」 「そうなの?」 「はい」 「じゃあ付き合う?」 彼はオレの手をやんわりと剥がしながら言った。オレは頓狂な声をあげる。 「あれ?ちがった?」 「たぶん違わないです」 「たぶんなわけ?まあいいや、じゃあ今日が記念日ね、オメデトー」 夏の終わりで、彼が部長に襲名してから一週間ほど経った日だった。おめでとう、と明らかに片仮名で発音した唇は見てわかるほどに荒れていて、湖がたゆたう瞳の下はほんのり疲れがあらわれてた。暑い日で、彼は疲れていて、魔が差しやすい日だった。 恋人らしいことがしたい、と手嶋さんが言ったのは二回目の記念日が過ぎた頃だった。時間におわれて今までの関係となんら変わりのない日々を過ごしていたので、恋仲であるかどうかもあやしく、未だ先輩後輩としての仲のほうが確かであった。オレは「例えばどんな?」と尋ねる。彼は小首をかしげて考えるそぶりを見せたあと、猫のようににったり笑った。 「今日の帰り遅くなっても大丈夫?あとロード泊めてくことになると思うけど」 オレは手嶋さんのように小首をかしげて考えるそぶりをしたあとに、大丈夫です、とこたえた。 部活終わり、手嶋さんは青八木さんに「今泉と話があるから」と言った、オレはその台詞をききながら、小野田と鳴子に「そういうことだから」と告げる。ひとつ、ふたつ頷いてみんながロードバイクで坂を下っていくのを見送ると、手嶋さんは部室に戻った。キャノンデールをローラーに固定して、鍵をかける、上から布を被せて見えないようにすると、長椅子に腰かけた。オレも愛車を泊めていく準備をする。 「で、なにするんですか」 やることもなくなり、オレは手嶋さんの横に座る。恋人同士で、部室ですることなんてオレにはまったく予想がつかないでいた、手嶋さんは携帯電話をいじりながら、もうちょっと待って、と言う。 「まだちょっとはやいし」 「はやい?」 「時間がさ」 「何時ぐらいまで待てばいいですか」 「九時」 手嶋さんの答えにオレは部室の時計を見た。時計は八時十五分を示している。 「くじ」 「そ、九時。いや?無理?帰る?」 ちょっと悩んだ。九時、町に降りる終バスは八時半だし、ロードバイクで帰るわけではないから歩きだ。家に帰ったら十一時ごろになるだろう、九時までまだ四十五分もあるし、オレにはすることがまるでなかった。 「帰る?いいけど」 手嶋さんは携帯電話を足元においてある鞄におとすと、オレの目をじっと見る。湖が見える瞳だ。オレは諦め混じりに首を横にふる。大丈夫です、待ちます。言葉を添えると、彼は「そ、」とだけ返して先程手放した携帯電話を鞄から取り出していじりはじめた、 結局、残り四十五分は、雑誌を読み、予習をし、筋トレをしてしっかり潰した。パタン、と手嶋さんが携帯電話をとじ、立ち上がる。携帯電話を鞄でなくポケットにしまいこむと「お待たせ、帰るか」とオレに言う。 「は?帰るんですか?」 「え、帰るよ」 「なんのために九時までいたんですか」 オレは怒るよりも呆れるよりもびっくりしてしまって、椅子から立ち上がることもできずに手嶋さんを見上げる。手嶋さんはてきぱきとオレの帰り支度をし、きちんとオレの鞄のファスナーをしめて寄越す。部室の戸締まりをして、確認もしたあと、パチンと部室の電気を落とす。 手嶋さんが部室の扉をあけた。外は真っ暗で星がわずかばかり光っている。 「ほら、帰るぞ」 オレは何一つ理解ができないまま、手嶋さんについて部室をでた。扉の施錠もしっかりと行い、裏門のほうへと歩き出す。 「さすがに正門はもうしまってるだろうしな、」 「はあ」 「で、はい、手」 「手?」 聞き返すと、手嶋さんは、ほら、と言いながらオレの手をとり指を絡めた。すこしだけ前を歩いていたのに、ちょっと歩幅を小さくして、オレと横並びになる。 「恋人らしいことしたいって言ったじゃん」 「これですか」 「そ、さすがに明るいうちじゃできないからさあ」 「はあ」 手嶋さんが繋いだ手をゆらゆら揺らす。中指でオレの手の甲をとんとんとノックしては指の腹で撫でる。 「しあわせだわー」 「こんなことでですか」 「この世のすべてはだいたいこの程度の積み重ねだよ」 お前だってそうだったろ。彼が含みのある言い方をする、もちろんオレはその台詞に心当たりがあった。足が止まる、手は繋がったまま、一歩分の距離がうまれる。 「あんたッ、」 その、一歩を。 グン、と繋いだ手を引かれてたたらを踏むも、そのまま引き寄せられ、手嶋さんに抱きつくようにたおれこむ。手の甲を、中指の爪でとんとんとん、とノックされる。 「知ってたよ、そうしたのはオレだもん。知ってた?」 「知りませんよそんなこと」 「オレね、お前が思ってるよりお前のことすきだよ。魔が差したとかじゃなくて、一応ちゃんとすきだから、だからただ手を繋いで帰るだけのことがしたかったし、そのためにこんな遅くまでお前を引き留めたりもしちゃうの」 手嶋さんが言う。オレは無性に手嶋さんの瞳をみたくなった、手嶋さんの肩を押すようにして体勢を建て直すと、彼の瞳を覗き見た。瞳のなかの湖が凪いでいるのか、たゆたっているのかが気になったのだ。果たして、手嶋さんの瞳は凪いでもいなければ、たゆたっているわけでもなかった。ぱちりと彼がまばたきひとつ。クスリ、と笑ってオレの鼻先に唇ひとつ。かさついた感触に驚いて見せると、彼は瞳をきらめかせて言った。 「今、たまらなくしあわせだよ」 手嶋さんがオレの手の甲を中指の腹で撫で上げたので、オレは人差し指で彼の手の甲をとんとんと叩いてやった。 |