じりじりと身を焦がす夏に、彼は自転車を辞めた。と、いうより、辞めざるを得なかった。

最初は、小さな会話のズレだった。もともと言葉少ななオレの言葉を純太はよく待って、聞いて、くだいて、理解してくれていたのだが、いつだったか、純太が表情を強ばらせるようになったのだ。それをオレは否定や拒否だと思っていたので、折れるところは折れたし、突き通すところは突き通した。だだオレが否定や拒否だとおもっていたものが実は違っていて、彼は言葉の意味を汲み取れていなかったのだ。間違いに気がついたのは彼とさらに会話がずれていったときのこと。今度はこちらが彼の言うことが理解できなくなった。発音が不確かなのだ。聞き取り難い声でなにかを懸命に喋る彼の言葉を理解しようとした。していたのだけれど。彼の言葉を待ちきれずに誰かが言った。

「何をいってるのかわからない」

純太はなにもかもが抜け落ちたような表情をして、唇を噛み締めた。頬が死人のように白い。

「……おれも」

噛み締めた唇をゆるりとほどいて呟かれた言葉は随分と弱く、幼さを覚えた。

それから純太は部活を辞めた。部活だけではなく学校も辞めた。「どうしてなんの相談もなく辞めてたんだ」「勝手だ」「きっと逃げたんだろう」悲しみと怒りとがない交ぜになった声が飛び交うなかでオレはぼんやりと考えた。いつから間違えていたのかを考えた。

暫くすると、みんな純太のことはすっかり忘れてしまった。クラスメイトは自然な顔で黒板に書き連ねられた文字を睨み、部活のみんなは元気にペダルを回していた。少し前まではあんなに騒ぎ立てていたのに、だ。オレは純太を忘れるなんてもちろんできなくて、学校が終わると手嶋の家に通うようになっていた。みんなは、逃げたのだと言った、相談してくれたらと言った、勝手なことをしていると言った。けれど違った。オレとしては純太が勝手なことをして、相談もせずに逃げてくれた方がよほどよかった。





純太の家に赴くと、いつも純太の母親が出迎えてくれた。いつもありがとう、と言いながら純太がいる場所まで通してくれる。純太は基本的にはリビングにいるのだけれど、たまに部屋にいたり、洗面所にいたりする。さすがにベランダにいた時は肝が冷えたものだけれど、純太の母親は大丈夫だと言っておかしそうに口許を柔らかく歪めた。

「純太は立ち上がれないから」

純太は精神年齢だけが後退していた。幼児退行、だとか。純太は、はいはいでしか移動ができず、言語もままならない。二歳くらいなのだという。精神が安定してきたら治るかもしれないし、成長だってするかもしれないが、なんとも言えないというのが実のところらしい。どうしてこうなっちゃったのかはわからないんだけど、と頬に手を添えて純太の母親は言っていた。穏やかな声だったけれど、瞳は鋭く冷たかった。きゃあ、彼女の傍らで純太が声をあげた。きゃらきゃらと笑っている。

「精神的なストレスらしくて、」

責める音のない声でやんわりと告げられて、オレはただ、そうですか、と返したのだ。





あまり長くはないが、それでも確かに日は過ぎていた。オレも部活を辞めていた。引退していた。季節は冬になっていた。純太の家のリビングでワイドショーを眺めながら、純太の母親と肩を並べてココアを飲む。純太は窓際で胎児のように丸まっていた。明日は記録的な積雪です、とテレビが告げるのをぼんやりと聞く。

「青八木くんは、」
「はい」

いきなり声がかかって肩が揺れた。ワイドショーから声の主に視線を写す。彼女はテレビではなく、純太をじいっと見つめていた。唇が動く。

「進路はどうするの?言いたくなかったらかまわないけど」

秋ごろから、彼女の目の下に確かな疲労が見えていた。介護をしているようで、面倒を見ているようで、たまにとても悲しいのだと彼女がこぼしたのも同じ頃だった。オレはやはり、そうですか、としか返せなかった。一日ごとに、この家は疲れていって、疲れは節々に確かに表れていた。きっと純太もそうだったのだ、気がつかなかっただけで徐々に何かがたまっていたのだ。

「オレは、」

今度は間違えたくなかった。

「純太といたいです。卒業したら、純太と暮らしたい」

オレの言葉に彼女は茫然としていた。いつかの純太のようだった、なにもかもが抜け落ちたような表情で、肌が異様に白くうつる。他にしたいことは?進学は?就職は?彼女はとつとつと雪を積もらせるように言った。オレはそれに思い付きもいいところの返事を返す。

「バイトをします。大学はとりあえず通信で、安いワンルームを借りて、純太と暮らしたいと思う、思います、たかが三年だけれど、純太がいないことがまったく想像できないんです。二人でないと意味がないみたいなんです」

彼女はぽつんぽつんと相槌をうった。お願いします。その一言で彼女はころりと涙をこぼす。ごめんなさいね、ありがとう。あまりにか細い彼女の声は、ワイドショーの笑い声であまりよく聞こえなかった。





部屋は純太と、純太の母と、それからオレの三人で見に行った。交通に不便でどんな路線からも徒歩二十分はかかり、バスも一時間に二本しかない、都会から外れに外れたアパートだった。ワンルームでユニットバスがついている。洗濯機はベランダに設置可能。家賃は二万五千円。保証人にと彼女はついてきてくれたのだけれど、なんと国籍問わずの保証人不用、予定はないがペットもオーケーだった。

「純太はここでもいい?」

尋ねるとにっこり笑ってこくりと頷いた。オレと純太の家ができた。






毎日、朝晩に三時間ずつバイトにでかけ、家では簡単な内職と通信大学の課題をした。バイトは純太が寝ている間だけで、純太が起きている間は純太の相手をしながら課題か内職をしていた。一ヶ月に一度、純太の家とオレの家から食料が届くので食べるのには困らなかった。生活もちゃんと回っていた。苦手な料理も、洗濯も上手くできるようになった。純太が泣いてもあやしてやれるようになったし、まとまに会話のできる相手がいないことにも慣れた。それに、純太は三歳児くらいの言語なら話せるようになった。オレのことを「はーちゃ」と呼べるようになったし、三文字の言葉なら言えるようになった。オレンジジュースなら自分からちゃんと飲めるようにもなった。まだ哺乳瓶だけど、飲み物は手が離れた。ご飯だけは食べさせてやらなければいけないから、今度は純太が好きそうなご飯にしてみよう。前はハンバーグを星形にしたのだけれど、肝心の形が上手くいかなかった。もし綺麗な星になったなら、純太は。

ボンヤリとしていた。机の上に課題をとっちらかして、言ったこともない国の言葉を眺めていた。

「あーう」

横に座っていた純太が声をあげる。バンバンと力任せに机を叩く。散らかしたままのプリントが机から落ちていく。オレが慌てて純太の手を取り上げると大きな声で泣き出した。疲れていたのかもしれない。彼女のように、純太のように。

純太が泣きわめくのに、なんにもしてやれずに狼狽えて、ついにはオレが泣いてしまった。ぼろぼろと溢れる涙を隠すように俯いた。純太が泣いてるからなんとか、どうにかしなくては、いけないとわかっているのになんにもできない。しゃくりあげないようにゆっくりと呼吸をするも涙は止まらない。

「う、ああ」

終いには声が漏れた。いつの間にか、オレも純太もこの狭いワンルームに閉じ込められていた。隔離されるようにただ二人ぼっちで、どこから間違えたのだろう。間違えたくなんてなかったのに、なにを間違えたのだろう。

「はーちゃ、いたい?」

すっかり泣き止んだ純太が問いかける。

「ううん、大丈夫」

嘘をついた。胸がいたい、心がいたい。ただ生きることが、こんなにも痛い。

オレは純太を抱き寄せる。しっかりと抱き締める。二人でならなんでもできると思っていた。できないことなんてないと思っていた。純太がオレの頭を撫でる。昔みたいに優しく撫でる。ただただ残酷だった。




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