ずっと気になっていたのだけれど、と彼女は控えめに話し始めた。秋のはじめで、まだ木の葉も色をつけていないころだった。
彼女とは、一緒に住んでいて、いわば結婚を前提に付き合っていた。大学二年の時にキャンパスで出会って、成り行きのようにここまできた。そのことに不満もないし、不足もない。適切だと感じている。社会人になってすぐに同棲をはじめて、もう二年は一緒に暮らしている。
今日は彼女と映画に行くために出かけていた。あいにくとあまり人気のない映画らしく上映本数が少なかった。そのためか丁度いい時間の上映もなく、仕方が無しに五時間後の席を予約した。どうしようか、と尋ねると、彼女はお茶にでも行きましょうと言った。彼女はオレが頷いたのを確認すると先陣を切るように歩き出した。
彼女が向かったのはオーガニック系の紅茶が豊富なティーサロンだった。なんとなくある人物を思い出してしまって居心地が悪い。店内に視線をさまよわせていると彼女がオレの腕を引いた。
「テラスでいいかしら」

テラスは心地よかった。日差しがまろく、風は冷たいがあまり気にならなかった。秋らしい涼しさが肌を撫でる。
「ここの紅茶が美味しいらしくて、すこし気になってたの」
そう言って彼女はローズヒップとマリーゴールド、それにカモミールがブレンドされた紅茶を頼んだ。オレはというとメニューを見てもなにがなんだかわからなくて、「本日のおすすめ」と書かれているハムと卵のホットサンドを頼む。しばらくして紅茶とサンドイッチが運ばれてきた。彼女が小さく歓声をあげるのを横目にホットサンドを半分にわけて取り皿に乗せると彼女の前に置く。
「くれるの?」
「うん」
「ありがとう、ね、私ね、ずっと気になっていたのだけれど」
「この店が?」
「まあ、それもだけど、そうじゃなくて」
彼女が言いにくそうに口をすぼめる。なんと言おうか迷っているようだった。その間に紅茶に口を付ける。ふんわりミントの香りと、栗の味がする。
「あのね、薬指が、ないなって」
申し訳なさそうに彼女が言う。あんまりにも思いがけないセリフだったものだから「え、ああ」なんて意味のない言葉をこぼす。
「薬指」
「そう、左手の」
手にしたままのカップをソーサーに置いて、声に引かれるように左手を空に晒す。別に隠しているわけではないし、特に後ろめたいことがあるわけでもなかった。
「もう私ね、青八木くんと別れるつもりもなくて、この際だから聞いておきたいなって思ったの」
嫌なら言わなくていいから、と彼女が気を使うので、オレはふるりと首を振った。だから、べつに、やましいものでもないのだ。
「これは、高校卒業するときに自分で切った」
「自分で?」
彼女が目を丸くする。
「高校三年間で、一生分の恋を使い切ったから、勝手に捧げてきたんだ」
「どんな子かきいていい?」
心なしか眉根を寄せる彼女に苦笑して、オレはまた紅茶を飲んだ。
「時間もあるし、順番に話す」

高校時代にずっと一緒だった子がいた。女の子じゃなくて、男で、オレよりも身長が高いし、頭もいいし、要領も良くて、口も達者で、すごくいいヤツだった。生まれてからそれまでの人生の中で一番大切な人だったし、今でも大事に思ってる。純太っていうんだけど、すごく強くて、でも弱くて、一生懸命で必死で、いつももらってばっかりだったのに、いつも青八木のおかげだって言ってきた。なんでもしてあげたくって、叶えてあげたかった。でもオレじゃ絶対に無理だってわかってたし、オレは純太のことが好きだったけど、純太にとって、オレは一番の相棒だったから。友達ともまた違ったと思う。好きだなんて言うつもりもなかった。三年間一緒にいられた、肩を並べて、組んで、卒業の日抱き合って泣いた。それだけで十分だった。もうきっとこんな恋できないと思った。

「だから卒業式の日に、家に帰っておじいちゃんの盆栽用のハサミで指を切った。痛くて気絶して救急車呼ばれて怒られた」
「バカだ」
「目が覚めて薬指がちゃんとなくなってて安心した」
彼女は真面目な表情でオレの手首を掴んだ。もうすっかり傷口はかたまり、塞がって、間抜けにも見える丸みを帯びている。
「不便じゃないの」
なくなった薬指を、彼女の小指が撫でる。ちょっとくすぐったいけれど、好きなようにさせた。
「あんまり。ないって気づかれることもそんなに」
「私も、気づいたのは三ヶ月たってだよ」
「そんなものだ。オレだけが純太が好きだって解ってればいいと思ってるから」
オレの言葉に彼女は掴んでた手首を投げるように離した。彼女は優しいところもあるが基本的には短気だ。
「妬けるなあ」
「だから指輪ははめられない。それでもいいなら結婚しよう」
「しょうがないね。来世は薬指、私にちょうだいね」
青八木くんの薬指なんだもの、きっととっても綺麗だったんでしょうね。彼女がため息混じりに言った。呆れているようにも聞こえる。
「ちなみに純太は紅茶が好きなんだ」
「ちょっと、ここぞとばかりに惚気けないでよ。私だって紅茶好きよ」
いよいよ声に鋭さをみせた彼女につい笑ってしまう。「知ってる」と返せばテーブルの下でオレの足を蹴飛ばされた。




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