「オレは幽霊である」と手嶋が告げたとき、幽霊がでることよりも背筋が冷えそうな古賀の瞳こそが、手嶋の古賀に対する印象だった。しかもそのとき頂戴したひんやりとした視線だけではなく「で?」という心ないお言葉も相まって、手嶋のなかで「古賀は雪男のようにひややかな男」という認識をしていた。もちろん手嶋は雪男がどんなものか知りもしないのだけれど、雪とつくから冷たいのだろうと結論付けるに至っていた。

手嶋は地縛霊だった。ワンルーム、ユニットバス、キッチンありの学生マンションに住んでいたのだが、なにかの理由でベランダから飛び降りてお陀仏した。けれど、なぜか未練がたらりたらりと残り積もって、生前住んでいた部屋にしがみついている。悪さはしないのでお祓いなどにかかったことはなかったが、幽霊は生身の人間には不調を与えるらしく人の入れ替わりは激しかった。しかし、どれほど人の入れ替わりが激しかろうと、たとえ以前人が死んだ部屋であろうと、学生マンションは強かった。この部屋だけ格段に家賃が安いため、お金のない学生はこの部屋に住むことをいとわなかった。お陰さまでこの部屋が空きになることもあまりなく人だけが変わっていった。誰かが出ていこうが、三日もすれば新しい学生がこの部屋にモップや雑巾をもってやってきた。

古賀がやってきたのはかれこれ三ヶ月ほど前だった。
「人の入れ替わりが激しい部屋で、実は以前人が亡くなった部屋なんです。きっと幽霊がいますよ」なんて説明をされた上で入居するやつなんて、幽霊を信じてないやつか、幽霊をなんとも思っていないやつのどちらかである。もちろん今まで手嶋を認識できない学生はたくさんいた、と、いうよりも、実は今まで手嶋は人に認識されたことがなかった。いいや、もしかしたら気がつかないふりをされていただけかもしれない。ただ、学生たちは、みんな原因不明の体調不良という理由でこの部屋を去った。それを手嶋が原因だと言うものは誰一人してなかった。手嶋はこの部屋に存在しながらも人の意識に存在することがなかった。だから、手嶋は、古賀が来たときもどうせ見えやしないだろうと好き勝手にくつろいでいた。あっちへごろごろこっちへごろごろ転がってだらだらしていた。古賀はやはり手嶋が見えていないみたいで、手嶋がなにをしていたって一つとして反応も見せずに掃除を始める。ほうきをかけて、雑巾をかけて。

だが、なにかがおかしかった。古賀がやたらと手嶋のいる方にむかって、手嶋の邪魔をするように掃除をする。物理的な接触などできないので、ぶつかることはない。なので別にかまわないといえば構わないのだが、なんだか煩わしくてだんだんと苛立ってくる。こいつは見えてないんだ仕方ない。手嶋は波立つ気持ちを舌を打ちひとつでおさめ、古賀から一番遠くへ避難しようする。だが、するりと移動した古賀に阻まれた。

「は?」

思わず声を漏らす。当然聞こえてないはず、なのだけれど。

「おい、邪魔だ」

古賀が手嶋の目をきちんととらえて文句をいう。手嶋はびっくりしてしまって、二の句がつけずにいた。だから邪魔だって、と古賀が言うので、手嶋はようやっと声を漏らす、あー、なんて意味のない音だったが、なんとか反応を返す。

「喋れないの?」
「みえてんの?」
「なんだ喋れるじゃん、邪魔だってば」
「オレは幽霊である」
「で?」

あんまりにも冷たい目で見据えられて、手嶋は思わず畏まり、すみません、と謝ってベランダに逃げ込んだ。



古賀がこの部屋にやってきたのはお昼頃だったのに、空はもう燃え尽きて紫色に変わろうとしていた。カラスが鳴いたら帰りましょう。ベランダのサッシに腰かけて、暇を紛らわせるために歌ってみた。もう同じ歌を何度も繰り返していた。いつもいつでも死んだ人間は暇なものだが、今日は居場所がなくて、いつもよりもっと暇で、死んでいるのに死んでしまいそうだった。カラスなぜ鳴くの。何回目になるかわからない冒頭部分を軽やかに歌う。

「うるさい、おまたせ」

後ろから声がかかる。

「カラスは山に?」
「……はいはい、お前は部屋にね」
「入っていいの?」
「もう掃除終わったからな」

古賀がベランダのガラス戸をあけて手嶋を見ていた。手嶋はきょとんとした顔で古賀を見る。閉めるぞ、と低い声で古賀が唸るので、待って待って、と慌てて部屋に飛び込んだ。

「名前は?わかるの?」
「手嶋純太」
「古賀公貴」

簡素にもほどがある自己紹介をしながら古賀の背中を追って踏み入れた部屋を見回す。なんにもないただ四角いだけの空間だった部屋は、ソファーベッドに、ローテーブルに、茶色のラグに、メタルラック、間接照明、といかにも古賀の部屋ですと言わんばかりの顔をしていた。

「居づらぁ、」
「飯は?」
「食べれるわけないじゃん、幽霊だっつの」
「そうだったな」

どうでもよさそうに古賀が返す。こうして手嶋と古賀と新しい生活がはじまった。

三ヶ月も経つとお互い気も知れて、どことなく馴れ馴れしくなって、ちょっとずつ喧嘩が増えた。手嶋は実体こそないけれど、生活の仕方は実体のある人間とそうかわりなかった。今までの入居者は手嶋など存在していないも同然だったので、手嶋はなんにも気にせず自分が思うように生活することができたのだが、古賀の場合はそうもいかなかった。動いたって物音などしないし、そもそも物にさわれない、足音だってないし、手嶋の生活音なんて無音も同然なのに、古賀はよく手嶋をうるさいと言った。

手嶋は規則正しく朝の六時に目を覚まし、あくびをしながら伸びをして、カーテンとガラス戸をすり抜けてベランダにでるのがお決まりだった。たいして古賀は、朝の七時までしっかりと寝て、起きたら顔を洗うところから始める。すこし前まではそれでうまくいっていたのだが、近頃、手嶋が部屋から抜け出す気配に起こされると眉をしかめて文句を言うようになった、なんの音もさせてないじゃん、と手嶋が反論しても、動く気配で起きるしただでさえお前は存在がうるさいんだと古賀も引かなかった。

朝だけでなく夜も揉めた。そもそも古賀と手嶋は一緒のベッドで寝てなんていなかった。というのも、最初のうちは手嶋が警戒して(幽霊である手嶋が、なんておかしな話ではあるのだけれど)古賀の近くで眠ることなどなかったのに、いつの頃からか手嶋が古賀のベッドに潜り込むようになったのだ。潜り込むようになった最初のあたりは古賀もまさか手嶋がベッドに潜り込んでいるだなんて気づきもしなかったのだけど、朝に手嶋の気配が動きだすことで意識を揺り起こされるようになり苦言を呈したのだ。そもそも、手嶋がベッドに潜り込まなければすむ話。しかし、手嶋が拗ねた口調で言う。

「オレだってベッドで寝たい」

手嶋の主張に古賀は頓狂な声をあげる。幽霊なんだからその辺で寝てろと言えば格差社会だとわめき出す。結果、間をとろう、より困ってる方を優先させようという話になり、夜は古賀と手嶋はひとつのベッドでともに眠り、朝は古賀が起きるまで手嶋も動かないなんてルールができた。馬鹿げてる、互いに思いながらも、間をとった。

その他にも一度、くだらない理由で大きな喧嘩をしたことがあった。二人ともがすこしずつ機嫌の悪い日で、なんにも原因のない喧嘩だった。

「もう出ていく」

手嶋がいうので、馬鹿にしたような声で古賀がいう。

「どこへ?この場所にしかいられないお前がどこへ?天国にも地獄にもいけないお前が?塩でもまいてやろうか」

完全な失言をした。手嶋はつり上げていた眉をさっとおろして、ひん曲げていた唇を一文字に結び、母親とはぐれた子供のようなあどけなさで古賀をみつめた。

「そうだな」

やけにゆったりと言葉を落とす。冷静になった古賀が、小さな声で謝ったけれど、手嶋はゆるりと首をふってその場に座り込む。そうだな、と噛み締めるようにまた吐き捨てて流れない涙を流してみせた。一日がとても長く、静かだった、雨でも降りだしそうな静けさだった。

その日以来どこにも行けない手嶋が不憫で、古賀はロードバイクのカタログを数点取り寄せて手嶋に与えた。

「自転車?」
「ロードバイク」
「なんで?」

手嶋の問いを無視して、古賀はカタログのひとつをぱらぱらと捲り、手嶋に差し出した。

「オレはこれに乗ってる」
「へえ」
「メリダだよ」
「好きなの?」
「当たり前だろ」
「いいなあ」

ぼんやりとした手嶋の声がやけに部屋に響いた。古賀はメリダを見つめる手嶋の頭を撫でてやろうとしたけれど、自身の手がすり抜けてしまうことを思い出す。果たして、古賀の手は床に縫い付けられたままで、古賀は視線だけで、手嶋の丸い後頭部を撫でてやった。

冬の始めになると、古賀も手嶋もお互い情がわいていた。錯覚と言われたらそれまでかもしれないけれど、ほとんど四六時中一緒にいて、好きにならないわけもなかった。だってずっと一緒なのだから。古賀は手嶋が食べられないことを知っていても食卓をともにしたし、ガラスをすり抜けられることを知っていても手嶋が行く道を遮らないよう扉は常に開けておいたし、手嶋がベランダに出る時間になると古賀がガラス戸をひいて開けてやった、猫じゃないんだからと手嶋が言うのに、似たようなものだと返すと、そうかな、と手嶋ははにかんだ。手嶋がくすぐったそうに瞳を細めるたびに、古賀は視線だけで、思考のなかだけで手嶋を頭を撫でてやり、髪をすいてやる。

夜、手嶋がもう一緒に寝ないと言い出した。なんでまた、と尋ねると、手嶋は逃げるようにベランダへ消えた。カーテンとガラス戸をすり抜けて。こんなときの手嶋は追いかけてもまるきり無駄であることを古賀は理解していたので、その日は一人で眠りについた。体温などないのに、手嶋がいないだけですこし寒い。水に溺れるように落ちた意識は、海から引き上げられるようにいきなり浮上する。すんすんと啜り泣く声が聞こえる。古賀は枕元の眼鏡に手を伸ばし、ぼやける瞳を擦るのもおろそかに眼鏡をかけて音を辿る。

「純太」

ベッド脇、古賀のすぐ真横で手嶋が泣いていた、とはいえ、涙は流れていない。しかし表情はたしかに泣いていた。ぐちゃぐちゃの顔で、見続けていると笑っているようにも見える。

「純太、なにしてるの」

古賀が懸命に問いかけた。純太ははくはくと整わない呼吸を無理矢理揃えて声を絞り出す。

「なんでオレは死んでるんだろうな、なんでだろう。どうして好きなだけじゃキスはおろか手を繋ぐこともできないんだろう」

手嶋の指先が、古賀の唇をなぞる。形だけですり抜ける指先に、手嶋は一層表情をしかめる。なんでだろう、しとしとと声を落とす。手嶋の声に耐えきれず、古賀の瞳からころりと滴がこぼれた。手嶋は古賀の頬に伝う涙を塞き止めようとして、当然のように失敗する。涙は手嶋の指を濡らしもせずに透き抜けた。

「そんなことオレのほうが知りたいよ」

古賀が嘆いた。瞳を濡らして嘆いた。

手嶋にとって、古賀の瞳は冷たいものだった。出会いが強烈だったので、だって今まで誰も見つけてくれなかったのに。冷ややかな瞳と声に驚いたのだ、だって怖がられると思っていたのに。手嶋は今、無性にあのときの冷たい瞳が恋しかった。雪男だとからかえる瞳がみたかった。寂しいと告げる瞳をなぐさめる指をもたないために、冷ややかな視線のなかに暖かさなどみつけたくなかった。

せめて一緒に泣けたらよかった。




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