手嶋が訪ねてきた。

最初は手嶋だとわからなかった。真夜中だ。ぐっすりと眠っていた。夢は見ていなかったように思う。ふと気がつけばピンポン、ピンポンとチャイムが鳴っていた。無視して寝続けようにも延々と鳴り続ける音にしょうがなしに布団から這い出たのだ。苛立ちながら玄関扉を押し開ける。乱暴に鍵をあけ、チェーンを外して、きっとおっかない顔をしていたと思う。起きたとき、部屋はまだ真っ暗で朝どころか、夜明けも来ていなかったのだ。なのに、叩き起こされた。穏やかな顔など作れるわけがない。

ドアを押し開けてしばらくは闇に目が慣れず、視点が定まらなかった。ただ、「よっす。久しぶり」と聞き覚えのある軽薄な声で、手嶋がいると認識できた。じわじわと視力が闇に慣れる。視界が捉えたのは、やはり手嶋だった。右半分だけ器用に力を抜いた、バランスの悪い笑みを浮かべていた。安い賃貸特有の錆びて赤茶けたサッシに背中を預けている。

「いれてよ」
「いやだ」
「ドーモ」

しっかりと断ったのに、手嶋はなんにも聞こえてなかったみたい応え、オレの脇をすり抜けて、野良猫のように部屋に侵入した。靴を乱雑に脱ぎ据てて勝手知ったると言わんばかりに迷いなく歩く。

「おい」

背中に声を投げ掛ける。

「まあまあ」

剽軽な声が返ってきた。オレは、一度だけ深く息を吐き出す。開けっぱなしの扉を閉めて鍵も、チェーンもしめた。手嶋の侵入を拒むことを諦めた。

戸締まりついでに手嶋が脱ぎ散らかした靴を整えてやったあと、手嶋の後を追う。手嶋は洗面台にも風呂場にもトイレにも足を向けずに、一直線に寝室へ向かった。先程までオレが寝ていた敷布団の上にごろんと寝転がる。

「なにしに来たの」
「ナニしに?」

にんまり、ちょっと下品な笑みで手嶋が言った。どうせ暇だろ?と続けられて、先程吐き出し損ねたらしい二酸化炭素をまたも深く吐き出す。

「付き合えよ〜。今日誰もつかまんねぇの。寂しくってさ」
「嘘だろ」
「古賀とヤりにきたってのはほんと。フリーなんだろ、今。じゃあ断るなよ」
「いやだ」

さっきと同じようなやり取りだった。オレはまた諦める。手嶋がオレの手を取り、引っ張りこむ。なんの抵抗もせず手嶋の上に倒れた。手嶋が喉を鳴らす。クツクツ、笑っていた。

「寂しいのもほんとだからさ、慰めてよ」

耳に囁くように吹き込まれた言葉が鼓膜を打った。音として脳に届く頃にはオレは手嶋を組敷いていた。にんまり、相も変わらず下品な笑みが貼り付けられている。

貧相な背中だと見る度思う。手嶋を四つん這いにさせて、後ろから突いて揺らしてやる。手嶋はもがいているみたいにシーツを掻きむしり、突かれればひしゃげた声とも息ともつかない音をこぼし、抜かれ揺さぶられれば引き吊れた音を漏らした。時おりギリ、と歯軋りをしたり、しゃくりあげたりもした。ちっとも気持ちよくなそうなのに、性器はしっかりと硬くなっている。表情は分からないが蕩けてなんかいないだろうことはわかっていた。昔っからそうだった。



昔、といってもそれほど遠い話ではないけれど、手嶋と付き合っていた。恋人という括りで会って遊んで話してキスしてセックスした。会うのは気が向いたときで、遊ぶのはもっぱらどちらかの家で、話す内容はどちらも一方的なもので、キスは舌なんかいれない簡素なもので、セックスは必ず後背位だった。

恋人同士のセックスだって、手嶋はひしゃげた吐息か引き吊れた声しか出さなかった。呼吸音に近い手嶋の喘ぎ声は、ぼんやりしているとまったく耳に入らない程度の細やかなもので、回数を重ねる度にオナニー染みていった。それがなんだか馬鹿らしくて、手嶋の身体をよく見るようになった。とはいっても後背位のセックスで見える場所など、頭、耳、項、背中、肩、腰、くらいなもので、面積からして背中ばかりをみるようになった。肩甲骨が浮き出て、背骨が窪んでいる、貧相な背中だった。オレは貧相な背中相手にオナニーしていた。趣味が悪い。趣味が悪いが、でも萎えたりはしなかったので、不便もなかった。きっと嫌いじゃなかったのだろう。手嶋のことも、手嶋の背中も。



「んッ、イッ、く、」

途切れ途切れに手嶋が呻いた。シーツを握りしめる手に一等力がこもり、手の甲に骨が浮いた。びく、びく、と魚が跳ねるように身を痙攣させる。

「ァ、」

手嶋の唇から息が逃げる。硬直した身体がゆるゆると力を無くす。

「ああ、オレ今死んだ」

ぼそりと手嶋が呟いた。どんな表情かはわからない。オレからはやっぱり、頭や耳や肩や項や背中しか見えなかった。



手嶋と別れたのは些細なことがきっかけだったような気がする。もともとたくさんの意味で恋人とは違っていたし、そもそも付き合ってなかったのかもしれない。手嶋との間に築きあげた関係が些細なものだったから、別れもとびきり些細なものだったのだろう。たぶんこれかな、と思うことはあっても、これが原因だったと言い切ることはできない。そんな程度のものだった。

旅行に行きたいとねだられた。どうして?と尋ねるとすこしだけ機嫌を悪くした。理由なんかねーよ、と手嶋が言うので、ならば行かなくたっていいだろうと告げたのだ。すると、手嶋はキッと瞳を鋭くさせて、バーカ!と小学生みたいなことを言って飛び出していった。それから二年は姿を見せず、三年目になるかというころに、「彼女ができた」と言いにきた。オレは「そうか」と無難に返した。手嶋も「そうだよ」と無難に返す。オレと手嶋は会っていない二年と三年経たずのうちに別れていた。旅行の誘いを断ったのが原因かも知れないが、会わずの間に他の原因があったのかもしらない。そのあたりは聞いてないので勿論知らない。



死んだ、と呟いて果てた手嶋は、這い這いでオレから逃げ出す。死んじゃった、と軽い口調で言うと、ゆったりした動作でオレを押し倒し、手嶋がのしかかる。二人抱き合ってるみたいに寝転がった。くるんと癖のついた髪が肌に擦れてこそばい。

「あのさ、寂しかったのは、ほんとにほんと」
「うん」
「なあ、あのさ、旅行に行きたい」
「……考えておくよ」

この時はじめて、舌を絡めるキスをした。



部屋が白んでいる。朝が来ていた。のっそりと起き上がって周囲を見渡すも手嶋の姿はなかった。伸びをして、首をゆっくりと回す。ぽき、ごき、と凝りが解れる音がした。もう一度周囲を見渡したがやっぱり手嶋の姿はない。

手嶋はいなかったけれど、枕元に一つ不自然なものを見つけた。赤いラインが入った、白い封筒。右下に旅行会社の名前が書かれている。「旅行に行きたい」と手嶋が言っていたことを思い出す。つい数時間前の話だ。

オレは封筒を手にとった。厚さはなく、重さもない、というより、薄すぎて、軽すぎた。不思議に感じながらも封を開ける。中身は三つ折りの紙切れがたったの一枚。空になった封筒を適当に放り、折り畳まれた紙を開く。

オレも手嶋も趣味が悪い。とことん悪い。だからオレは手嶋純太なんて面倒な男を好きになったのだ。本当になんて面倒な男を好きになってしまったのか。手嶋が残した紙切れの内容も、そりゃあたいそう悪趣味だった。

仕方がない。諦めた。深い溜め息をはいた。これだから、こんなやつだから好いてしまったのだ。「寂しかった、旅行に行きたい」馬鹿な話だし、かわいそうな男だった。でも、だから、だから好きだったのだ。開いた紙をまたきれいに3つに折り直し、また旅行会社の封筒にいれた。

「馬鹿だなあ」

呟いた。立ち上がって、玄関に向かう。顔も洗ってないし、髭だって剃ってない、でも、まあいいかな、なんて。とても気分がよかったから。玄関扉の鍵は開いていた、チェーンもされていない。きちんと並べておいたはずの靴がぐちゃぐちゃになっていた。まあこれも今日くらいは多目に見てやろう。乱雑に乱れた靴を踏みつけて素足のまま外に出た。

手嶋が残した一枚の紙には二つのことが記入されていた。一つは印刷された文字で「検査の結果、エイズの可能性がある」との長ったらしい文章。もう一つは綺麗なのか汚ないのかよくわからない角の強い癖字、手嶋の字で「先に行ってるからすぐこい」との簡素な文章。

追いかけてほしかったなら、そう言えばいいのに馬鹿だなあ。おまえ。オレもだけど。



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