それは始業式のとき。校長先生の長く退屈な話が終わり、夏の間におこった各部活動の健闘を讃えるはずだった時間のことです。全校生徒がざわつくなかで、校長先生は変わらず壇上に立ち、僅かばかり眉を下げました。
「この学校の生徒がひとり、夏休みの間に亡くなりました」
体育館は一気にシン、と静かになりました。校長先生は言葉を続けます。
「彼は、三年三組の手嶋純太くんです。知った人も多いでしょう、告げる別れがある人はあとで職員室に」
まだ蒸し暑さの抜けない体育館に、しっとりとした空気が満ちました。泣き出す子もいました。黙祷を。校長先生の声に、みんなが瞼をふせました。


いつもにこやかなピエール先生も、今日ばかりは沈痛な面持ちでした。部室に集まった自転車競技部の部員も、なにを言えばいいのかわからない様子でした。とても、にわかには信じられませんでした。今ここに彼がいないことが、彼の死によるものだとはどうにも思い難かったからです。
「ミナサンは、別れの言葉もアルデショウ」
ピエール先生が言います。
「教員は彼の死をスコシ ハヤクに知らされていまシタ。募る思いもあるデショウが、今日はハヤク帰って、ヨク休んで、明日にミンナで行きまショウ」
みんなはやはり返す言葉を探すことができませんでした。泣くことも憚られました。泣いてしまうと、たしかに彼は死んだのだと、認めてしまうようで嫌でした。なぜか、きっと生きているのではないかと、心のどこかで信じているところが誰しもにありました。藁にすがっているだけだと、滑稽な虚勢だと、各々が自覚していながらも。

あんまり大勢で押し掛けては迷惑になるため、彼の家には、インターハイでともに走った五人と、同級生の古賀、ピエール先生の七人で行きました。天気は良く、青空には羊雲が漂っていました。
彼の家の前までくると、ピエール先生をのぞいた六人は身をこわばらせました。
パンドラの箱を開けるようだと、青八木は誰にもばれないように思考します。もし、ここを訪ねなければ、手嶋は遠くへ旅行にいってしまったことにできたのではないだろうか。本当はまだ死んでいないのだということにはできやしないかいだろうかと考えていました。
青八木は昨日の晩、学校を出たあとに一人ロードバイクを走らせました。手嶋が好きな道を走りました。手嶋が悩んだときに必ず足を向ける海辺にも行きました。太陽にかわり月が空に浮かぶまでペダルを踏み、手嶋の影を見つけようとしました。けれど、彼は死んでいるのですから、そんなところにいるわけもありませんでした。青八木はガードレールに腰掛けて、真っ暗な海を眺めました。手嶋純太はもういないのだと、悲しみが溶け込むように静かに理解したのでした。

六人の様子を知ってか知らずか、ピエール先生は手嶋とかかれた表札の横にあるインターフォンを押しました。間抜けな音が響いてすぐに家の扉が開きます。中から、真っ黒なワンピースに黒い真珠の首飾りをつけた女性が出てきました。お待ちしていました、と微笑んでから、ピエール先生と軽く会話をして、どうぞ、とみんなを家のなかへ招き入れました。

洋風のリビンクに似つかわしくないそれは、当然のようにみんなに違和を与えました。
「椅子が足りなくて申し訳ないのですけれど、どうぞ四人はテーブルに、三人はソファーにでもおかけください」
促されるままに各々は手近な場所に落ち着きました。彼女はみんなが腰を落ち着けるのを見届けると、台所に消えていきました。程無くして、カランと氷とグラスがぶつかる音を響かせて、麦茶をもってきます。
「どうぞ」
また彼女が言いました。

お線香を。ピエール先生がいうと、彼女は是非、と手を合わせました。青八木と古賀が立ち上がります。他の四人はまだ、ぼんやりとした様子で麦茶が入ったグラスを眺めていました。
仏壇は、部屋の隅、陽当たりのいい窓辺にありました。遺影を見ると、手嶋は眉を寄せて、くすぐったそうにも、困ったようにも見える表情をしていました。
手嶋は、笑うと眉間に皺がよる人でした。瞳を細めて、ぐちゃぐちゃとも言えましたし、くすぐったそうとも言えましたし、それこそ困っているようだとも表すことができました。彼の笑顔を知っているからこそわかるのですが、遺影の中の彼はたしかに笑っていました。いい写真だといえるようなものでした。
古賀がマッチを擦って、蝋燭に火をつけました。二、三度振ってマッチの火を消して捨てると、線香を手に取り、蝋燭から火をうつします。青八木も古賀に倣いました。手をあわせ、瞼を伏せます。青八木には、手嶋はもういないという事実を、身体に染み込ませているように感じられました。
イイお写真デスね、とピエール先生が口にしました。ありがとうございます、と彼女は答えます。彼女の声は、女性にしては低いようでしたが、ライムの果実を思わせる爽やさがありました。目を瞑って耳にすると、それこそ手嶋の声によくよく似ていました。
「あの子の写真をたくさん見て選んだんです。真面目な表情もあったんですが、なんだか、そうですね、」
彼女が言葉を切りました。本当にわずかな沈黙のあと、不安定な声で続けます。
「……悲しくて」
彼女の、ライムを思いこさせる、手嶋とよくよく似た声が、青八木の鼓膜を貫き、脳に響かせました。胸を、刺されたような痛みを感じました。そっと瞼を押しあげると、手嶋の遺影が視界にはいりました。彼は笑うと眉間に皺がよる人でした。ついでに言いますと、眉尻を下げて、目を細め、くすぐったいような、困ったような、そう、泣いているような笑い方をする人でした。
笑っていると思っていた彼の顔がどろりと溶けたように見えました。ぼろぼろと涙をこぼして泣いているように見えました。青八木は耐えきれず俯きました。

彼はもう、この世にはいないのです。



手嶋の死は、話を伝い、箱根学園の自転車競技部にも届きました。一番驚くだろうと思われていた葦木場は、もう弔いはすまていると悲しい笑顔でいいました。中学校の同級生が教えてくれたのだといいます。意外にも悲しんだのは真波でした。いいえ、悲しんだ、というのはすこし違うかもしれません。彼は不思議そうにしていました。首をかしげて、空を見て、けれど口はつぐんだままでした。
真波が不思議と疑問を唱えたのは東堂にでした。電話口で、東堂は静かに彼の死を悼み、真波の話に耳を傾けました。
「どうして、手嶋さんは、インハイのあのいろは坂であんなにも生きていたのに」
話のなかで、墓だけでも参りにいこうと東堂が提案しました。真波はそれを、無言で肯定します。
やはりその日はよく晴れて、青空が広がっていました。東堂は手に花を持っていました。真波が訊ねると、贔屓にしている花屋で見繕ってもらったのだといいます。
「仏花だ。手ぶらでいくものではないだろう」
「お墓に供えるお花」
「ああ」
「青色の花があるんですね、菊だけだと思ってました」
「ブルースターチスだな。献花は生きている人が忘れないようにと供えるものなのだが、彼が青空を焦がれたことを忘れないようにといれてもらった」
電車をいくつか乗り継いで、手嶋の骨が埋められた場所まで辿り着きました。なんてことはない団地の裏にある集合墓地でした。東堂と真波は石碑を確認しながら手嶋の墓を探しました。
比較的綺麗にされているそれを見つけたのは真波でした。墓石の近くにしゃがみこむ真波に近づき、東堂は花を供えます。
「ねえ東堂さん」
真波が言います。
「どうして手嶋さんは死んじゃったんですか」
わからないことがあったとき、真波が答えを求めるのはいつだって東堂でした。真波は東堂が答えを持っていると信じていました。
東堂は唸りました。心当たりがあるようにも思えました。東堂さん、と真波が呼び掛けます。沈黙を経て、東堂が大きく息をはきました。
「夢のような話だ。それに、オレも伝え聞いただけだからな。確かとは言えんよ」
「別に構いませんよ」
東堂はまた肺のなかの息を吐いて、話はじめました。
「彼は事故死でも自殺でもなんでもなく、本当にただ死んでしまっただけらしい。彼のお母様が朝に様子を見たときには布団にくるまって、いつも通り寝ているみたいに死んでいたそうだ。薬なんかでもなかったと、」
「どうして?」
「ここからはオレの想像だが、彼の遺体を火葬するとき、釜の温度がなかなか上がらなくて長引いたそうだ、オレはな、真波。彼は悲しくて死んでしまったのだとおもう。悲しみが胎内にたまって冷えて、凍え死んでしまったのだろう」
真波は東堂の顔を窺いました。彼はいたって真剣な表情で立っていました。墓石に視線をもどします。手嶋がここに眠っているのだというのです。真波には信じられなくたって、それは本当のことだというのです。
「土のなかは、ここよりもあったかいのかな」
真波の問いに、東堂は答えませんでした。

その夜、まだ夏は終わりをむかえてなんていないのに、殊更冷え込みました。息をはけば白むような寒さでした。そのおかげでしょうか。空気はキン、と澄みわたり、空には星が瞬きました。

土のなかはここよりはあたたかいのだろうか。土のなかよりも上に生きるものが、答えを知ることはないでしょう。



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