さっちゃんにも幸せになってほしいなあ、さっちゃんが笑ってるとねぇ、僕も幸せなんです。そんな言葉を聞いた時、俺は那月を幸せにしてやれないのだと思った。



***


ぐるぐる。気持ち悪い。那月は体調管理が下手なわけではないが季節の変わり目に弱い。風邪がくることには慣れたけれど、風邪をひくことには一向に慣れそうにない。コホッ、と乾いた咳を零してシーツに包まった。やはり喉を酷使することが多いからか喉への被害が甚大だ。息をするとヒリヒリして、咳をすると甲高い破裂音や布を引き裂いた時を思い起こさせる痛み。肺は重たく、身体はだるく、頭は痛く、暑くて寒い。

「さいあくだ」

呟いたつもりが音は出なかった。コホ、と咳をしては肋が痛む。よかった。那月がこんな目にあわなくてよかった。どうにかしてそれだけを思考する。那月は苦しんでいないのだと考えることによって気を休めていることには気が付いていた。なにか胃にいれた方がいいとわかってはいても、立ち上がるのも億劫で、なにかを作ることも難しいだろう現実。ルームメイトのチビはいない。追い出したのは紛れもなく自分。いつもは気にならないはずの閑散とした部屋の白々しさから逃げるように砂月は目をつぶった。寝て起きたらなにか食べよう。そう思いながら意識をゆがませた。視界が歪んでいたのはきっと気のせい。ゲホ、鈍い咳がいやに部屋に響いたことが心臓を風邪とは違う意味できしませたのもきっと気のせい。



***


ことこと。あたたかな音に目を覚ます。白んだ視界にうつる部屋に白々しさはない。熱がひいたのか、寒さも暑さも緩和されていた。身体の重さもマシなような気がする。これなら起き上がって粥のひとつでも作れるだろうと身を起こす。身を起こした時に頭がくわんと泣いたけれど、眉をしかめるだけにとどめた。

「あ?」

素っ頓狂な声が出たのは台所に足を向けた時。ことことシュンシュンとヤカンが音を立てて湯気を吹いていた。誰だ、俺か?いやちげぇな。どうにも思い当らなくて、自身の無意識の行動だったかと思考を巡らせるもそんな記憶は微塵もなかった。そういえば、目を覚ました時もことことと音が鳴っていたと、どうでもいい情報だけを思い起こしただけだった。

「誰だ?……は?」
「お、起きた?顔色マシになったんじゃない?」

痛む喉を押さえながら言うと明るい声が返ってくる。しかし返ってきた声よりも喉を押さえた手に触れたものに砂月はまた間抜けな声を漏らす。

「んだ、これ?」
「冷えピタ、喉晴れてたからもらってきた」

デコにも貼ってんの、あとで替えなきゃなあ、と暢気にいう男にペースを握られ、ただただ困惑していた。なんでいるんだ、いつからいるんだ、なにしてるんだ、どうしてこんなことしてるんだ。それらの他にもたくさんたくさん聞きたいことがあったのに、どれから聞いたらいいのかがわからず、またなんと言葉にしていいのかも見当がつかなかった。ただ顔をしかめてどうしたらいいのかわからないまま突っ立っているしかなかった。

「おい、」
「うん?あー寝とけば?あとでお粥と蜂蜜檸檬持ってってあげるからさ」

優しいねー俺、と嘯く男は飄々としている。なんだかそれに無性に腹が立ってどうしようもなくて。

「出ていけ!!!」

叫んでいた。血を吐くんじゃないかというほどに喉が痛んだし、叫んだあとに盛大にむせたけれど。叫ばずにはいられなかった。これは那月のものだ、じゃあ俺のものだ。お前のものではないし、俺が受けるべきでお前は干渉すべきじゃないし関係なんてまったくない。だから出ていけ帰れ。俺をみじめにしてくれるな。これは那月の痛みなんだ。俺が受け取り大事にすべき那月の、那月の。

視界はボヤけていた。なんだかひどく悲しくてしょうがなかった。これは俺のなんだとただそれだけを主張した。だれにも渡さない。俺のだから、だから奪わないで、俺に任せて、じゃないと俺は那月の役に立てない。那月にいらないと思われてしまう。だからこの痛みを奪わないで。

ごほごほぐずぐずと喚く俺とは対照的にレンは涼しい顔で、呆れたというようにポーズをとった。息まで深く吐いて見せて、本当に呆れている風だった。

「……んだよ」
「心配しなくてもさ、とらないよ」

ていうか取れるわけないでしょ、にやにやと笑う。自信ありげに。どうでもよさそうに。

「でもさー早く良くならないと、シノミー授業についていけなくなっちゃうし?砂月もつらいし?ねぇ?」
「……う、」
「那月の痛みは砂月のでいいよ、砂月の痛みも俺はもらおうと思わない。はんぶんこなんてもともと出来やしないものをほしがるほど馬鹿じゃない」
「何が言いたい」

いいから帰れ帰ってくれ。わかったから。風邪は治すから。当たり前だけれど。でもそれよりもはやくに治して那月の授業に支障をきたさないようにするからだからお前は帰れ。殴りたい衝動を抑える。殴ったところで今の状態だと俺が倒れて終わりということは目に見えて分かることだった。キッとレンをにらみあげる。いつも退屈そうな男の声がなぜかひどく楽しげで。

「はんぶんこはできないけどさ、なくなるまで見ててあげる」

それならいいでしょ?シノミーもはやく元気になって、砂月もはやく元気になって、砂月は身体も心も痛くなくなる。困るね、俺。かっこよすぎて。そう思うでしょう?

まくしたてるように唇を動かす。ピタ、と言葉が止んだと思ったら急に腕をひかれて抱きしめられた。視界が滲んだままで状況が把握しづらい。喉も頭も痛い。心は痛くないけれど、でもよくわからない感情がせり上がってきてすこし気持ちが悪い。腰や背中に当たる腕の感触が頼りないシーツよりもしっかりと俺を包み込んでくれるような気がして。なんでなんで、こんなにも狭い面積で。

ちゅ、と首筋にキスされた。ふざけんな死ね、言ってやりたかったけどコホコホと咳が出てヒクヒクと呼吸の定まらない喉は思い通りに動かない。

じゅわあ、とレンの後ろからヤカンの吹きこぼれる音がする。危ない。ガス止めてこいよ。言ってやりたいのにやはり喉は動く気配を見せない。動いていてもヒクヒクと痙攣し、しゃくりあげるだけだ。それにどうやら反逆者は喉だけじゃない。手もレンの服をつかんで離れない。意識だけは俺のままなのに、身体はきっと那月が乗っ取っているんだと思うくらい俺の思う通りに動かない。

「ほら、寝に行くよ、お粥食べてさ、蜂蜜檸檬飲んだら一緒に寝よう」

ずるずる引きずられてベッドに戻される。優しく掛けられたシーツはすっぽりと俺を覆い隠した。髪を撫でられる。泣きたくなった。この時ばかりはひどく泣いてしまいたくなった。

さっちゃんにも幸せになってほしいなぁ、

そんな那月の声を思い出す。幸せ、俺は那月が笑っていれば幸せなのに。那月は俺も幸せじゃないと幸せになれないと我儘を言う。

少し待っててね、という声を視線で追った。あのオレンジ色の服にしがみついていたとして、誰も那月を責めないだろうか。あれを、あれは。

ゆっくりと瞼を閉じた。視界は依然滲んでいた。こほこほと咳をこぼしても部屋に反響する様子はない。部屋はぬるく俺を包み込んでいた。


あれは、この痛みやよくわからない気持ちの悪さが拭えるまで、傍らにいてくれるのだろうか。


その答えは眠りについて起きた後。シーツよりも確かな温もりが自身を包み込んでいることによって解明されることを、砂月はまだ知らないでいる






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -