14.森のシミ男「安息」

夜空が朝日により徐々に明るみが増していく中、八敷の運転するワゴンが九条館に到着した。
車から降りた真下は後部座席のドアを開き、勇廻を横抱きに抱えホールへ向かう。
今の勇廻は、身包みを剥がされた上に真下のトレンチコートを羽織っているだけだ。靴も失った為裸足のまま。

森のシミ男により全身に蜂蜜を塗りたくられているのもあり、裸足のままで歩くと床が蜂蜜と、足の裏を小枝や小石により怪我を負った血で汚れてしまう。

それを察した勇廻は顔を伏せながら真下に「…ありがとう、兄さん」と礼を言った。
真下のスーツにも蜂蜜が付着し、上半身を中心に所々に染みによる汚れが増えてきている。

「礼を言う前に、まずはその甘ったるい匂いを何とかしろ。
もう嗅ぎ飽きたぞ」
「…だから早くシャワー浴びたい。欲を言ったら湯船に浸かりたい」
「八敷、風呂沸かせ」
「……あ、ああ」
「ご、ごめんなさい八敷さん」

申し訳無さそうに頭を下げる勇廻に、八敷は苦笑を浮かべながら早足で浴場へ走って行く。
開いた扉の先からホールで待機していた翔の「お、おっさん?!」と慌てた声が聞こえた。
両手が封じられている真下は閉じかけた扉を足で開ける。
浴室へと向かった八敷から、今度は真下のトレンチコートを羽織っている勇廻を姫抱っこをしている真下の二人へ視線を向けられる。


「……何してんだよ、真下の旦那…。
…あ!てか、姐さん!無事だったんだな!!」
「うるさい奴だな。見ればわかるだろう」
「…いや、でも何でそんな格好になってんだよ」
「えーと……記憶に無いけど多分シミ男に蜂蜜を塗られて…」
「はぁあ!!?あのクソ野郎…!姐さんにざけた真似しやがって!」

激情する翔とは真逆にクリスティの表情は浮かばれない。
疑問に思った勇廻は恐る恐る口を開く。

「…クリスティさん、どうしたんですか?」
「………貴方達、シルシはどうなの?」

質問を質問で返され勇廻は戸惑いながらクリスティの問いに答える。

「私と兄さんのは消えましたが…あれ?翔くんは?」
「俺は消えたぜ。……でも、おばさんのは…」
「え……」

驚きの余り目を見開き言葉を詰まらせた。
応える様にクリスティは苦悶の表情を浮かばせながら右手掌を見せた。……シルシは刻まれたままだった。

「そんな…なん、で……?」
「そんなの私が聞きたいわよ!ねぇ、どういう事なの!?私このまま死ぬのッ!?」

クリスティがヒステリックに叫び、頭を抱える。
その悲痛な姿に勇廻と翔は何も言えなかった。



「勇廻さん、あともうちょっとで湯が沸く……どうした?」

ホールに戻って来た八敷が声を掛けるが、不穏な空気に首を傾げた。
めんどくさそうに真下が溜め息を零す。
そんな兄に代わり勇廻が事情を話しはじめた。

「クリスティさんのシルシ…消えてないの」
「……一体どういう事だ?」
「怪異関係の事を、俺達が悩んでも仕方が無い。
八敷、さっさとメリィに確認しろ」

真下の言われるがまま八敷はメリィの方へ向かう。



「おかえりなさいませ、八敷様。
怪異の恐怖を乗り越え、想念の解放に成功したようですね。
勇廻様も無事に救出出来て安心しました」

メリィから安堵の声を聞いた勇廻は申し訳なさそうに眉を下げ「心配掛けてごめんなさい」と頭を下げ謝罪の言葉を向けた。

「ですが…八敷様にシルシを刻んだ怪異が森のシミ男ではないのは残念ですが…真下様と勇廻様、そして翔様のシルシが消えたのは喜ばしいことで御座います」
「……聞きたいことがある。
俺のシルシはともかく、何故クリスティのシルシが消えない?
彼女は森のシミ男にシルシを刻まれたはずだろう」

八敷の疑問にメリィはあっさりと答えた。


「ならば、その前提が間違っているのです。
つまり…クリスティ様にシルシを刻んだのは、別の怪異だったのでしょう」

メリィからの衝撃発言に皆が目を見開く。
そんな皆のことなどお構いなしにメリィは続ける。

「クリスティ様のシルシは刻まれてからまだ日が浅いようです。記憶への影響もさほどありません。
ただ、彼女自身にシルシをつけた怪異と接触した場合……記憶障害が急速に進行する可能性が御座いますので、ご注意ください」

ふむ、と息を吐き八敷は心当たりがあるように顎に握った拳を当て考える仕草をする。

「…森のシミ男と戦う前に起きた、真下や勇廻さんの『あの様子』の事だろうな」
「え、それって具体的に言うと…?」
「こう…何と言うか…うわの空とでも言えば良いのか」
「……なぁ、オッサン」

急に翔が割って出た。

「さっきから気になってるんだけど…アンタの手、すげぇ汚ねぇな」
「そりゃ仕方ないだろう。
今日一日で、どれだけ山歩きをしたと思ってる」
「そりゃ、そうだけどよ。でも…なんかニオイもキツいぜ。
変なモノでも触ったんじゃねぇのか?」

翔の言いたいことを察した真下は八敷のバッグに顎を向ける。

「こいつは、手に着いた蜂蜜の事を言ってるようだな。
ほら、妙なノートを拾った時だ」
「……あぁ、アレの事か…」
「ノート?」
「森のシミ男が落としたモノだと思うが、お前みたいに蜂蜜塗れでな」

態とらしく皮肉を向ける真下に勇廻は何も返せなかった。……何せ事実上そうなのだから。
姫抱っこされている為、真下との顔の距離はほぼ近い。
至近距離から真下の不敵な笑みを見てプイっとそっぽ向くが、恥ずかしさもあり頬を赤く染めるしかなかった。


八敷がバッグから例の蜂蜜塗れのノートを取り出すと、案の定中までべっとりと汚れている。
指先でページの端っこを摘む様にそろそろと汚れたページを開く。
ざっと読み終えた八敷から内容を皆に話した。


ノートには蜜蜂家族の活動内容やその思想について書かれていた。
それを書いたのが森のシミ男か、はたまた別の人物なのかは分からないが……。
支離滅裂な文章で、社会への憎悪と狂信的な考えが綴られている。

この日記の主は敬虔な人物だったらしい。
樹海のH神社について多く触れている。

「…このH神社って、帰り際に八敷さんがいたとこの?」
「恐らくそうだろうな。
あの樹海においてこのノートに書かれている神社を当て嵌まるのは、此奴が勝手に単独行動を取った際に向かったあの神社だろうな」
「……だから悪かったってさっきから謝ってるだろう」

真下の嫌味に八敷は眉を下げ顔を顰める。
兄さんの良い玩具になりつつある八敷を、勇廻は心の中で「八敷さん、諦めて」と合掌した。


「……で、荒れ果てた神社を放置したままだと、祟りが起きると本気で信じていたらしい。
あの樹海で自殺者が多いのも…、忌まわしい事件が起きるのも……。
日記の主に言わせれば、全てH神社の祟りの所為…だとか。

…な、感じで書かれていた」

汚らしいノートを閉じると、ノートの角を指で摘みもう触りたくないと言った様に遠ざける。
内容が内容なので翔の顔があからさまに嫌そうに顔を歪めていた。

「こういう話は、マジで勘弁してくれ…。
祟りとか呪いとか、苦手なんだよ……」
「くだらん、とも言い切れんな。馬鹿馬鹿しさの程度なら、祟りも怪異も変わらん。
怪異なんてものがいる以上、何があってもおかしくない…か」
「確かに…ね。
あの神社、如何にもそれっぽい雰囲気あったし」


皆が各々感想を漏らすと、クリスティがため息交じりに呟く。

「祟りね……。もしそれが本当なら………」

だが、直ぐに黙ってしまった。
何かを思い返すかのように考えている様だが……。





「さて、そろそろ夜も明けます。本日の調査は此処までといたしましょう。
皆様も山歩きでお疲れでしょうから、ゆっくりお休みくださいませ。

それに…勇廻様もさぞお疲れで御座いましょう。
湯船に浸かって疲れを落としてお寛ぎください」
「有難う、メリィさん…」

メリィの厚意に感謝しつつ、ずっと姫抱っこをしてくれている真下をチラッと見る。
九条館に来てからずっと抱えてくれているのだが、流石の真下も疲労が溜まっているだろう。
重く…はないと言えば嘘になるが、そこそこの重さがある。
ソファーに座らせてくれれば良いものの、真下はそれをせずにずっと抱きかかえてくれている。


「さっきからジロジロと見てるが、なんだ?」
「いや…ずっとこうしてくれてるけど、疲れない?」
「こんなので疲れる訳ないだろうが。さっさと風呂に行くぞ。
……おい、風呂は何処だ?」

有無を言わさずに真下は抱きかかえた勇廻を抱き直すと、八敷に風呂の場所を尋ねる。
八敷は一瞬遅れを取ったが、直ぐに理解し浴室の場所を教えた。



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「おぉ……。流石…洋館のお風呂は凄いや…」


率直な感想を呟いた勇廻の言葉が浴室に響き渡る。
漫画でしか見た事の無い猫足の付いた大き目の湯船に浸かった勇廻は三角座りをしながら忙しなくキョロキョロと浴室を見渡す。

白を基調にしたタイル床と壁と天井、金色の蛇口とシャワーヘッド、高級そうなシャンプーリンスにボディーソープ。
これらを見て高揚しない者などいないだろう。特にクラシック調な仕立てが好きな女子にとっては。
しかも、いつでも湯を沸かせる機能付きだ。何ともハイテクな。

湯加減はと言うと、やや温めのお湯だが疲労した体には丁度良かった。
逆上せる事も無くこれなら、何十分でも浸かっていられそうだった…が、此処で長湯するのも気が引ける。
身体の汚れは落としたのだから、後は体を温めて出ればいい。
…こんな大きな湯船を泡風呂にしたら尚良しだったんだけど、ね。


「……あ。着替え…どうしよう……」

忘れていた。
そう言えば服は森のシミ男によって奪われてしまっていたのだ。
靴だけでなく下着も紛失していたんだった。
なのに、銃や警察手帳だけは残っていたのは謎だが……。

髪を洗っている時に気付いたが、真下から貰った髪飾りも無かった。
あの森の中で落としてしまったのだろうか…。



「兄さんから貰った髪飾り…あれ大事にしてたのに……」
「心配するな。樹海の入り口前で拾ってあるから安心しろ」
「あーそっか。安心し………


なんでいるの、兄さんッ!!!

驚愕の声を上げながら湯船の中でこけると、バシャンと水飛沫を上げる。
出入口に腰を屈め此方の様子を伺っている真下がいたからだ。

いつの間にいたの!?
浴室まで運ばれた後、八敷さん達と話をするとか言ってホールに戻った筈なんじゃ。
いやいや、それより…いつからそこにいたの!?

咄嗟に両腕で胸を隠すと、何を今更とでも言いたそうにフンと鼻で息をする。


「今更隠す程でもないだろう。
お前の乳房を何度見てると思ってる」
「だぁああぁ!!言わないでえぇ!!!」
「なんなら、お前の一番感じやすい場所も…」
「やめてくださいお願いします」
「相変わらず、からかいやすい奴だ」

わなわなと震えながら顔の半分まで湯船に浸かると、ジロリと睨み付ける。
そんな些細な抵抗を見せる妹に真下は「おーおー、怖い怖い」とお道化て見せた。

「汚れは落とせたのか?」
「…お陰様で。何回も髪と体を洗わせて頂きました。
それで…兄さんの方は八敷さんと話済んだの?」
「ああ。この一件で俺がずっと追っていたヤマ…捜査一課が輪郭すら掴めていない、H市の連続失踪事件…そのカラクリが分かったんだからな。
それに長年追っていた蜜蜂家族の事件にも、俺なりのケリをつける事が出来た。

『貴方の追い求める真実は此処で手に入ります』だか…メリィの占いも大したもんだな」

そう言う真下の口調はいつも通りに聞こえたが、雰囲気は和らいだように見えた。
ずっと追っていた事件の真相を突き止めた事により肩の荷が軽くなったのだろう。

蜜蜂家族の組織へ侵入捜査し殉職した先輩刑事の墓参りが出来ると目を細めながら呟いた。


「私も一緒に行っても良い?
先輩には凄くお世話になったから」
「別に駄目とは言っていないだろう。
最初からお前も誘う気だったから問題はない。
……それより、いつまで入ってるつもりだ。さっさと出ろ」
「出たいのは山々なんだけど…着替えが無くて」
「其処の棚に置いてあるバスローブを着ればいいだろう。
何をそんなに悩む必要があるんだ」


真下の言葉に「……へっ?」とつい間抜けな声を出してしまった。
棚?バスローブ??
そんなモノあったのか。
浴室に入る前は真下に抱きかかえられたのもあり、ちゃんと回りを見ていなかったのだ。
だからバスローブの存在に気付いていなかったのかもしれない。

「あ…あったんだ、バスローブ」
「それさえあれば下着もいらんだろ。
タオルと一緒に置いておくから頃合いを見て着替えろよ。
前と同じ部屋にいるから、お前も早く来い」

そう言い残すと、真下はその場から離れ浴室を後にする。



「……兄さんも汗流せばよかったのに」

ボソッと呟くと、屈めた腰を上げ湯船から出て少し熱めの温度のシャワーを浴びる。
蛇口を掴みキュッと捻ると水道を閉じ、長い髪を両手で束め水滴を絞り出す。
真下が用意してくれたタオルを取り濡れた体を拭き「ふぅ…」と溜め息をつきバスローブを身に纏い、皆が寝静まった中忍び足で真下がいる部屋へと戻って行った。



【……To be continued】

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