02


松平のおじさんからとんでもなくいいお誘いを受けてから三日が経った。私の中ではもちろんその話に乗るつもりで答えがまとまっていた。
なのに、何故か少しだけ寂しさが沸く。


「手、止まってんぞ」
「へっ?」
「へっ?じゃねえよ。手が止まってるっつってんだよ」


さっさとそれ終わらせろよ、と言われてハッとした。目の前に積まれた書類の山に、頭が痛くなる。これ今日中って、相変わらず土方さんは鬼だ。


「私がいなくなったら土方さんこれ全部一人でやるんですか?」


なんとなく、気になっただけだ。
なんとなく、気になったから聞いてみただけ。
土方さんは「まあ、そうなるだろうな」と言った。


「大変になりますね。私がいて助かった部分もありましたもんね!」
「別に」


……あぁそうですかそうですか。
こちらをすこしも見ずに筆を走らせながら答えて下さった土方さんにあっかんべーと舌を出してやった。こっちを見てなかったはずなのに「斬られてーの?」と言われて慌てて書類の方を向いた。
土方さんの視界は随分と広いらしい。
時計の秒針と筆が紙の上を滑る音、それから時たま土方さんが煙草を吸う音だけがする。
いつもならもっと会話があったのに、何故か今日はどちらも黙って書類と向かい合っていた。
そもそも土方さんから話しかけてくれることなんて、私へ何かをしろあれを買ってこいという命令以外でないのだから私が口を閉ざしてる限り当たり前のことと言えば当たり前のことだけど。
なんだか今日は話したくない。
モヤモヤと気分が悪かった。


「休憩挟むか?」
「え?」
「だから休憩。茶でも淹れてこい」
「あー、はい」


いつもなら休憩なんて言い方をされないから、驚いた。いつもなら喉が渇いた、としか言ってくれないじゃんか。
立ち上がって台所へ行こうとすれば「おい」と呼び止められた。


「はい?」


振り向いてみたけれど、土方さんがこちらを向く素振りはない。


「茶菓子も持ってきていい」
「茶菓子、ですか?」
「女中に言えばなんかしら出てくんだろ」


珍しいこともあるもんだ。土方さんが糖分を取りたがるなんて。
はぁ……と答えて副長室を出た。
疲れてると甘いものが欲しくなるというから、きっと疲れているんだろう。
たまたま台所にいた女中の山田さんに茶菓子を下さいと言えば「副長に怒られないかい?」と心配されてしまった。大丈夫です、その副長が食べたいらしいんで。


「あら、そうかいそうかい。じゃあ洋菓子より和菓子の方がいいさね?」
「私は洋菓子の方が好きだけどなぁ」
「駄目よ我慢しなさい。名前ちゃんがまた怒られるのよ」


また、と言われてこないだ怒られたことを思い出した。基本、毎日何かしら怒られているから忘れていた。
こないだこっそり山田さんに貰ったクッキーを食べていたら土方さんに見つかってくどくど説教をされたのだった。勤務中に菓子なんざ食うやつがいるかって。
「これだから若い女は……やれお茶の時間だやれ休憩だってすぐ仕事をサボりたがる」と睨まれた。
女中の皆さんが私の母親より年配なのは、若い女は働かないという土方さんの偏見かららしい。


「じゃあ和菓子頂いてきます」
「名前ちゃんの分も乗せとくからね」


お茶と茶菓子が乗せられたおぼんを受け取ってありがとうございます、と副長室へ戻れば土方さんは何やら外を眺めて黄昏ていた。


「なにしてるんですか?」
「……別に。空気の入れ換えしてたんだよ」


そうですか、と腰を下ろしお茶を渡せば珍しく「ありがとな」と言われてサブイボが立った。
これは土方さん、熱でもあるのかも知れない。素直にお礼を言うなんて気持ち悪い、ていうか怖い。
そっと額に手を添えれば、ブッとお茶を吹き出されてしまった。机に広げられていた書類にシミが広がる。


「てっめ、何しやがる!!」
「そんなことより書類!!書類!!私がやった書類がぁー……」


怒鳴った土方さんはこの際後回しでいこう。
私が朝から頑張った書類を慌てて拭いてみたけれど、墨が滲んでしまった。


「なんで吹き出すんですか。あーあやり直しだこれ」
「てめえが急に変なことするからだろ!」
「私ですか?!私はただ、土方さんが気持ち悪いから具合でも悪いのかなって」
「あぁ?気持ち悪ィ?」
「あ、間違えですすみません。様子がおかしかったので気持ち悪くて具合でも悪いのかなって」
「全然変わってねえよ、死ね」


幸い、駄目になった書類は二枚だけだった。
もう気をつけてくださいね本当、と言えばお前が余計なことしなきゃこんなことにはなってねえよと言われてしまった。
こんだけ怒鳴れるなら熱もないだろう。
私もお茶を飲もうと湯のみに口をつければ土方さんが「和菓子にしたのか?」と聞いてきた。


「だって土方さんは和菓子の方が好きだって、山田さんが」
「俺が食うわけじゃねえんだから好きなの持ってくりゃいいだろ」
「え?」


俺のためじゃねえよ、と言われてじゃあ誰のためだと疑問に思う。
まさかとは思うけど私の為……?


「やっぱ熱あります?」
「……今日の稽古は特別に実戦形式にしてやろうか?」
「えっ、絶対に嫌です、あれ稽古じゃないですもん!リンチですからね、普通に!!」


敵に囲まれたことを想定して、という実戦形式の稽古を一度だけされたことがある。あれは銀さんと飲みに行って朝まで帰ってこなかった時だった。土方さんは怒鳴るわけでも殴るわけでもなく稽古だ早く着がえろと帰宅早々気持ち悪いと玄関でしゃがみこんだ私に言った。
道場に行けば土方さん総悟くん山崎さん原田さん斎藤さんと真選組でもかなりの手練れが待っていた。
そして実戦形式で稽古を始めると言った土方さんが私に竹刀を渡し、一斉に打ち込みに来られたのだ。あの時は稽古でなのか抜け切ってない酒でなのか分からないけれど30分も経たないうちに私はマーライオンと化していた。
胃の中のモノをトイレまで我慢できず、道場を出てすぐの水場でぶちまいた。
そんな私に土方さんは「あと3セットはできるな」と言って手加減せずに引きずり戻したのだ。
あんな地獄みたいな稽古、できればもう二度とやりたくない。


「その饅頭食っていいぞ」


フッと笑って土方さんは煙草を取り出した。
熱はないらしいけど、こんなに優しいなんて……
毒でも盛られてないかとヒヤヒヤしてしまった。

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