「ボタン、取れかけてる。袖の」
「あぁ?ああ、これか。後で屯所戻ったら直しておく」
解けかけた糸が伸びきってぶらぶらと揺れるボタンは今にも取れて失くなってしまいそうだった。昼のニュースが流れる定食屋で、サバの味噌煮を突っつきながら会社に戻れば裁縫セットがあるのになと思った。
「ここで"貸して、私が縫ってあげる"とか言えたらすっごくいい女じゃない?」
「そんなことさらりとされちまったら惚れるだろうな、大抵の男は」
「十四郎も惚れるの?そんなことで?」
「惚れるんじゃねえの?」
知らねえけどと付け足された。分からないじゃなくて知らないのか、そうかそうか。それはつまり誰かにボタンを付け直してもらったことがないという解釈で合ってる?
「しかし残念。私は生憎、裁縫セットを持ち歩いてません」
「だろうな。手拭きとちり紙さえ持ってなさそうだもんな」
「手拭きってハンカチのこと?それなら持ってるよ一応」
マジか、と態とらしく顔を上げて言うもんだから「マジだよ」と私も真剣な表情で見つめ返してやった。
この日、裁縫セットを持っていたら、私は十四郎の何になれたんだろう。
▽
年末年始は忙しいらしく、定食屋で十四郎と顔を合わせることはなかった。顔を合わせてないのは多分4ヶ月くらいあるけど、たまに来る生きてるか?のメッセージで十四郎が元気なのだと確認はできていた。強いて言うならば生きてるか?と問いたいのはこちらの方だけど。
「よう、生きてたか」
「…と、しろ?何してんの、人ん家の前で」
もう初夏を迎える。日はだんだんと伸びてきて仕事から帰宅する時もまだ外は明るかった。
「なんだかんだいろいろ立て込んでたんだけどよ、やっと落ち着いたから生きてっかなってふと気になってな」
人ん家の玄関に寄りかかるよう腰を下ろし煙草の煙を上げているその姿はチンピラにしか見えなかった。ちょっと勘弁してくれる?近所の人に怖い人と関わりがあるとか思われたらどうしてくれるの。
なんだかんだ、いろいろ。会ってない間、何か変わったことはあった?とか、どんなことがあったの?とか。そんなことを聞ける関係ではないのだと知っている。でもこうして生死を気にかけてもらえるほどには関係が築けていたらしい。
「こっちの台詞なんだけど、それ。私は一般市民だよ?簡単に死んだりなんかしないでしょ」
バッグから鍵を取り出しながら、冗談のように茶化しながら言ってみた。十四郎の方が仕事柄いつ死ぬか分からないじゃんって意味だった。
「馬鹿だろお前。人間なんていつ死ぬか分からねえよ。明日お前が死んだりするかも知れねえだろ」
ガチャと解かれた錠。へ?と未だしゃがみこんでいる十四郎へ目線を落とせば見下ろす形になってしまった。私が見下ろす形になっているのだからごく自然のことだけど、上目遣いでこちらを見る十四郎に「あっ」と声が漏れてしまう。
「…んだよ」
「なんでも、ない」
鍵を開けドアノブに手をかけたまま一向に回さない私を不審そうに十四郎が見る。そして立ち上がった。途端に目線は逆になり、今度は私が十四郎を少し見上げる形になった。
「入らねえの?」
「入るけど、でも」
今日余り物しかなかったよな、とか。十四郎もうちでご飯食べるのかなとか。急に頭の中が忙しくなった。
「早く入れよ」
「あっ」
何してんだよと眉間にしわを作りながら重ねられた手。私の思考とは裏腹に、新たに加えられた力によってドアノブは回った。
「急にどうしたんだ?腹でも痛えのか?」
「…ううん。夕飯のこと考えてた」
「ああそんな時間か。どっか食い行くか、久しぶりに」
「そうだね。今日何も考えてなかったし」
十四郎が死についてどう考えているのか。死とどう向き合っているのか。私には分からないけれど、私とは全く違う考えを持っているのだということだけは理解できた。
何しに来たの?なんて聞けない。多分本当に十四郎は私が生きているのか死んでいるのか確かめに来たのだ。それだけなのだ。
「私が死んだら葬式に来てくれる?」
「俺がその時まだ生きてたらな」
十四郎の話は面白い。十四郎の考え方は好きだ。なのに何故同じ目線になれないのだろう。
「そこは嘘でも行くって言えばいいのに」
小さくボヤいたそれは十四郎に届かなかった。
十四郎は残酷な人だと思った。でもそれはきっと私が十四郎に対して友人以上の思慕いを持ち合わせてしまったからだろう。不思議だ。私の中へ無許可で入り込んで侵食していくくせに、私に同じことはさせてくれない。どこか距離が取られているのを感じた。
▽ 低温火傷
前 | 次
最初に戻る