「なぁ、それ地毛?」
「ううん染めてるの」
「…あ、そう」
この会話に深い意味があるとは思わなかった。江戸に新しく出来た最新の美容院に行った数日後十四郎が言うもんだから、あそこの美容院はやっぱり高いだけあって腕がいいのかと思った。私もね、染めてるわりには綺麗な髪をしてると自己満ながらも思っていたところなの。毛先を整えたばかりの髪を触りながら「十四郎は染めたことないでしょ」と返した。
「髪なんか生えてりゃいいんだよ生えてりゃ」
「でもいつもその髪型じゃない?」
「伸びたら切ってるからな」
「結構長い方だと思うんだけど。前髪とか」
いつからか私の使うトリートメントは安いものから中堅くらいの値段のものに変わっていった。それはいつからだっけか、と思い返してああそうかあの時からだと1人頬が緩む。髪綺麗だなって十四郎が言ってくれた時からだ。あれはどうしてそんな話になったんだっけか。もう思い出せない。きっと十四郎だって覚えていない。そんな記憶にも残らないような、ごくごく自然な会話なの流れからだったのだと思う。それでも私はトリートメントを変えていた。
▽
木枯らしが吹き舞うようになり本格的な冬を迎えようとする頃、十四郎を初めて家に上げた。男の人が私の家に上がるのは10代の頃以来で少しだけ緊張した。
「へえ、思ったより片付いてんじゃねえか」
「人様をお招きするんだからそりゃ掃除くらいしたよ」
「別に気なんざ使わなくていいっつーの」
「勘違いしないで頂きたい。気を遣ってるんじゃないよ」
網戸に穴が空いたから張り直しをしたいのだと、先々週辺りにボヤいたことを十四郎は覚えていたらしい。一昨日コンビニで偶然会った私に「明後日何してんだ?」と声をかけてきた。特に何もしてないけど?と返せばなんと網戸を直してくれると言うじゃないか。
「つか何したらこんなデカイ穴が空くんだよ」
「迷い猫を一時面倒見てたの」
「迷い猫?飼い主は見つかったのか?」
「うん。万事屋さんって知ってる?そこに依頼して探してもらった。ここペット禁止だし」
くわえ煙草で網戸を外す十四郎。来て早々修理し出すなんて、なんて真面目な人だろうか。一服してからでいいよ?とやかんに火をかけた。
「いや、先にこれやっちまうわ。穴が空いてて窓が開けられねえってボヤいてたろ」
滅多にないのだという休みの日。それなのに他人の網戸を直すことに使ってくれちゃうなんて。警察官っていうのは善意に基づいて生きているのだろうか。
「さすがは警察官」
「は?」
「慈善活動に精が出ますなぁ」
「馬鹿だろお前。誰彼構わず面倒見るわけねえだろ。うちは特殊警察だ」
どきりとした。十四郎は深く考えずに言っただけの、深い意味など持たないその言葉に息を飲んだ。網戸を直してくれると言われた時から自惚れそうだった。私は十四郎の中でどういう存在なのだろうと期待しそうだった。思い返せば十四郎は同じく黒い装いをした、多分仕事仲間だと思われる人以外と一緒にいるところを見ない。話をしていても、仕事以外に何か熱中する趣味があるようにも思えなかった。そんな十四郎が私と会えば時間を共有してくれる、それは何故かと考えれば考えるほど都合のいい答えにしか行き着かなかった。そして今日、こんな出来事があって…
「この後のご予定は?」
「別にねえな。独り身野郎の休日なんざそんなもんだろ」
「ああ、じゃあ溜まりに溜まった欲を吐き出しに吉原に行くわけだ?」
「それもありだよな」
広い背中から聞こえたその言葉が浮き足立つ私を地へ下ろした。ピーっとやかんが鳴いてコンロの上でカタカタと暴れ出した。慌てて台所へ向かい火を止める。
「ねえコーヒーとお茶どっちがいい?」
ただの友人なのだ。しかし友人の括りには入れて貰えてるのだ。吉原に通っていると聞いても胸は苦しくない、悲しくもない。ならば私は十四郎をどう思っているのだろう。何故変な期待をしてしまうのだろう。
「なまえ」
「ん?」
「悪り、新しく買って来た網に穴開けちまった…」
「はい?」
「煙草咥えてんの忘れてたわ」
十四郎が手招きをする。背後から覗き込むように少し腰を曲げ手元を見れば、小さな穴が空いた網が確認できた。
「何してんの…」
「新しい網買いに行くか。仕方ねえな、半分出してやるよ」
「え?別にいいよ、直してもらうんだしお金なんて」
「本来なら要らねえ出費だろ?」
「たかが網戸の一枚や二枚、大丈夫だよ」
「いいから、黙ってありがとうって言えよ。直してやるなんて言っといて格好付かねえだろうが」
クソやり直しだ、と網戸に向かって悪態を吐く姿にいつだか思っていたことを思い出した。十四郎は女を勘違いさせる。十四郎は女泣かせに違いない。
「お湯沸かしちゃったから一服してから買いに行かない?」
コーヒーとお茶どっちがいい?という二度目の質問に、コーヒーと答えた十四郎に私は了解と笑った。
▽ 海の底で息をする
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