指先に感じたチクっとした鈍痛。「痛っ」と顔を歪め痛む先へ視線を落とせばじわりと血が滲んでいた。

「慣れないものはするものじゃないね」

誰に聞かせるわけでもなく呟く。
ふといつだか誰かさんとした会話なんかを思い出して徐ろに買ってしまった裁縫セット。ボタン付けの練習をしながらふうっと息を吐いた。私よりも器用な誰かさんはきっと自分自身でボタンくらい縫い付けるだろう。でもそれじゃダメなのだ、それじゃあ私は誰かさんの何者にもなれないのだ。

「どうしたんだ?その指」

「ん?ああ、ちょっと針で」

対面に座る十四郎が左手にお椀、右手に箸を持ちながらチラリとこちらを見て言った。絆創膏の貼られた格好悪い指先へ私も視線を向ける。

「不器用かよ」

「そうかも」

「馬鹿、あんなもん慣れだよ慣れ」

「馬鹿にしたかと思えばフォローしてくれちゃうところ嫌いじゃないよ」

「…改めて言葉にすんな。なんか小っ恥ずかしくなんだろうが」

「口は悪いけど優しいことは知ってるんだぞ」

「うっせ」

他愛のないやり取り。絆創膏の端を指で弄っている私に十四郎が「なんでまた急に」と問いかけた。

「裁縫道具くらい、持ち歩ける女になろうかと」

「へえ。そりゃいい心がけで」

じゃあ今度ほつれたスカーフ持ってくるわと言った十四郎に私はボタン付けくらいからお願いしますと返した。
きっと十四郎には伝わらないようなことかも知れないけど、これは私のーーー。


「…なんだお前も昼か」

「…なんだとは失礼な。昼だよ、昼休憩」

久しぶりに定食屋へ顔を出せばカウンターに見覚えのある後ろ姿があった。十四郎と会うのは気持ちを伝えたあの日以来のことで胸がぎゅっと痛んだ。

「座れよ。何ぼけっと立ってんだ?」

「言われなくてもっ、座るよ」

本当は、十四郎がいたらコンビニでおにぎりでも買おうと思っていた。だからこの後ろ姿を見た瞬間、後ずさりをしてしまったのだけど。私に気づいた十四郎が何も無かったように、私の告白なんて聞いてないかのように話しかけてくれたから…このまま元の二人に戻れるならばそれが一番なのかもしれないと思って、それで…。
久しぶりに会ったというのに私たちはくだらない話だけをした。十四郎は相変わらず上司と部下に振り回されてるらしい。懐かしく感じるその話に気づけば心はなんだか晴れていた。もっと早くここに来るべきだったのかもしれない。

「沖田くん、元気なんだね相変わらず」

「あいつが元気ねえことなんかねえよ」

「そして十四郎は相変わらず沖田くんが大好きなんだ?」

「はあ?んなわけねえだろうが」

「はいはい〜素直じゃないなあ」

「聞いてた?お前俺の話聞いてた?俺部屋に七輪置かれたの初めてだからな」

あのクソガキ本当に…とボヤいた十四郎の横顔に笑みが溢れる。よかった、またこうして話すことができてよかった。ふふっと声を漏らした私に十四郎が反応する。「それでお前は?最近どうよ調子は」なんて少し頭をかきながら言った。
ああ、違った。十四郎はなかったことにしてなんてないんだ。あれもこれも全て踏まえて、それでいて私を傷つけないように私がこれ以上迷わないようにしてくれてるんだ。その優しさに気づいた時、ああやっぱりこの人が好きだなって。だってこんなのずるい。言葉にしなくても分かってしまう優しさなんてずるすぎる。

「そうだなぁー…これといって特に何かあったわけじゃないんだよなぁ。ほら、私は十四郎と違って愉快な仲間とかいないし?」

「誰が黄色い熊だよ」

「あれ?十四郎腕上げた?」

「お前は相変わらず…」

ため息混じりにこちらを向いた十四郎がその後に続くはずだったと思われる言葉を飲み込んだ。ん?と首を傾げた私はそのまま十四郎と目が合って、どきりとした。黒い双眼に映った自分はこんなにも…
言葉に詰まって器官が狭まる気がして、目をそらす。泳いだ視線は十四郎の手首へと逃げることができた。

「あ、ボタン」

「ああボタン?」

「うん、取れかけてる」

「ったく、またかよ。ついこないだ留め直したっつーのに」

「甘かったんじゃない?」

「二重で留めたっつーの」

どくんどくんと強く脈を打つから、私は多分あまり深く考えることができていなかったのだ。会話を続けなきゃ、この心臓を抑えなきゃと必死になっていて、じゃないとあの目に引き込まれてしまう気がして。

「仕方ないなぁ。ちょっと待って、確か鞄に…」

鞄に手を突っ込み中を漁れば、ほらあった。雑巾を縫えるようになってから持ち歩くようにしている小さな裁縫セット。

「よかったね、私がこういうの持ち歩く系女子で」

ほら腕出して、動かないでね?刺しちゃうかも。
なんて笑って顔をあげれば驚いたように目を丸くした十四郎がいた。

「…え、なにその顔。そんなに驚くことじゃな、」

「ー…だろ」

「え?」

「馬鹿だろ、お前」

差し出された腕は私の手首を掴んでいた。眉を寄せ苦虫を噛み潰したような表情をした十四郎が小さく呟いた。

「俺にどうしろっつーんだよ」

そらされた目に、察する。困らせた。私はまた、十四郎を困らせてしまった。
いつだかの会話がものすごい速さで脳内を駆け巡る。

「違う、そうじゃない…そうじゃなくてっ」

ごめんーーーと言いかけた私の腕は勢いよく引っ張り上げられた。まだ残っているお新香が視界を横切る。

「十四郎?」

「おやじ、勘定」

「ちょっ、十四郎!?」

私の分まで支払いを済ませた十四郎に引っ張られるようにして店を出た。ねえどこ行くの?十四郎?聞いてる?
私の声なんて聞こえてないかのように足を進めていく。

「ねえ、待って。私、昼休憩もう終わっ、」

「煩えな。あとでいくらでも聞いてやるから今は黙ってついて来りゃいいんだよ」

大きな声に私はビクッと肩を一瞬震わせた。そして黙って十四郎に従った。
でもそれは怒鳴られて怖かったとかそういうことからじゃない。私は望んで従ったのだ。

「期待させんな、馬鹿」

震えた声で小さく、本当に小さく落とした言葉を十四郎は拾い上げたらしい。

「てめえこそ未練がましいんだよ、馬鹿女」

ただ引っ張られていただけの手に力を入れた。十四郎は振り向かなかったものの、私の手を拒むことなく握り返した。
どうやら酸素を必要としているらしい


最初に戻る