ずっとずっと好きだった人に想いを伝えるまでもなく振られた。別に伝えるつもりもなかったけど、期待だってしてないけど。ああやっぱりなとしか思わないけど、でも。

「なんでてめえが泣くんだよ」

「分かんない」

「会ったことあったのか?」

「ないよ」

「…そうか」

「うん…」

目の前で泣けない男の代わりに泣いてるんだって言えるくらいずるくなれたらいい。あんたの代わりに泣いてやってるんだって、そうしたら少しは違うところから私を見てもらえる気がした。

「悪りい、変なところ見せたな」

そう言ってバツの悪そうに、へったくそな笑顔を見せた男に私は頷いた。本当だよ。見たくなかったよ。十四郎も、そんな顔するんだね。
突然やって来て"総悟の姉貴が死んだ"、そう言った十四郎は情けないくらい顔を歪めていた。空は皮肉にも、星が綺麗だった。


十四郎と出会ったのは偶然のようで必然のようだった、なんて言ったら少し大袈裟すぎるけど。
その日天気予報では一日中晴天だった。朝は確かに洗濯物がよく乾きそうな晴れ模様が広がっていた。しかし夕方になって段々雲行きが怪しくなっていった。仕事を終え帰路へ着こうと外へ出た時にはバケツをひっくり返したような雨が降っていた。天気予報を信じ切っていた私はあいにく傘を持ち合わせていなかった。止みそうもないその雨に、仕方ないと肩を落としながら家路を急いだ。鞄で頭を覆うようにして、走ったのだ。家まであと半分というところで、線を引いたように空が晴れていた。どうしてこんなにくっきり雨雲が途切れるのか、不思議で足を止めた私の足元には水滴っていた。

「おい。アンタ駅の方から来たのか?」

不意にかけられた声に振り返れば、髪の毛をタオルで拭く男が立っていた。

「…はい、そうですけど」

知らない人に突然、アンタと話しかけられたのは初めてだった。不審で探るように全身をじろじろと見ていれば男は「通り雨だったらしい」とつい1時間前、こっちの方も雨が降っていたのだと教えてくれた。

「気温が高えから路面はすぐ乾いたな」

路を見ながら煙草を取り出した男が舌打ちをした。どうやらライターが湿気ってしまったらしい。

「ったく。濡れてねえから大丈夫だと思ったのによ」

そう言って口を尖らせた男は第一印象よりも幾分マシに思えた。初めは「おい」だの「アンタ」だの、偉そうなやつだと思ったが素直で(思ったことがそのまま口に出る方の素直)口がほんの少し悪いだけらしい。子どものように感情を顔に出すその姿に警戒が緩む。

「あの。私、ライターなら持ってますけど」

「ああ、おたくも喫煙者?」

「いや。ビューラーを温めるときに使ってるので多分ポーチに…」

鞄に手を突っ込みポーチを探す。あ、やっぱり入ってたとライターを差し出せば男は眉をひそめながら「ビューラーってなんだよ」と言った。

「ビューラー…なんて言えばいいんだろう。まつげをこう、上げるというかクルンとさせるというか…分かります?」

指で睫毛を撫でるようにして説明する。そうか男の人はビューラーという名前に馴染みがないのか。私の説明でもあまりよく分からなかったらしく男は納得し切ってない表情のまま「へえ」と軽く頷いた。聞いてきたのはそっちのくせに反応が薄過ぎると思う。
サンキューと返されたライターをポーチに仕舞う。特にそれ以上なにか会話をする必要性も無いのに、どう切り出してその場を立ち去ればいいか分からなかった。何故なら男が隣で煙草を吸い出したからだ。歩きもせず、ただ隣で煙草を吸っている。だから私もその場から離れずにただただ雨雲と晴れ模様の境目を見上げていた。

「あ、見たことあるわ」

「は?」

思い出したように先ほどよりもずっと聞き取りすい大きさの声で話し出した男。思わず素で「は?」と言ってしまった。

「ビューラーってやつ。アレだろ、まつげ挟むやつだろ?」

そういやそんなの見たことあるわ、と男は満足気だった。見知らぬ男がビューラーをどこで見ようが、誰のもので知ったのか、別に私に何も関係なかったけど…会話を繋げようと「どこで知ったんですか?」と問いかけてみる。

「吉原じゃね?」

「…行くんですか」

「そりゃ行くだろ。いい歳こいた男だぞ」

…なんて返せばいいんだろう。
名前も知らない男の吉原通いを知った場合、どう反応するのが正解なのだろうか。
あっけらかんと、見ず知らずの女に恥じらいもなくそんなことを話した男に何故か親近感が湧いた。親近感というのはおかしいかもしれないけど、異常なまでに親しみ易さを感じたのだ。

「いい歳って…私とそんなに変わらなそうなのにおっさんみたい」

男はポケット灰皿に煙草を詰め込んだ。そして私に「家はどっちだ」と問いかける。もしかしてこれは新手のナンパだったのかと、しばらく浮いた話に縁がなかった私は胸を踊ろせた。高鳴る鼓動を必死に抑えながら、余裕ぶって「ナンパのつもり?」といい女風を吹かせたのだ。その瞬間、男が眉間にありえないほどのシワを寄せた。

「はあ?そんなわけねえだろ」

何言ってんだコイツ、もしくはこの女頭大丈夫か?的な表情をされてとんだ勘違いをしてしまったのだと気づいた。男は胸ポケットから手帳を取り出す。

「アンタ、さっきからじろじろ見られてんの気づいてねえのか?」

濡れて透けてんだよ胸元、と言われ確認すればくっきり浮き出ている下着。痴女か、私は痴女なのかと羞恥心からその場にしゃがみ込んだ。

「これ見える?警察手帳。一応、どっかで強姦とかされたらあれだから送ってく」

その言葉と共に上から掛けられた服。それはまだ少し雨の匂いがした。

「…透けてるの知ってたならもっと早くコレ貸してよ」

しかも今日に限って何故黒いブラジャーだったんだろう。くっきり透けてたわ、本当。
はあ、と大きくため息を吐いた私に男は「ビューラーのこと考えてたら上着貸すの忘れてた」と言った。これが私と十四郎の出会いだった。何故かこの後もばったり偶然街中で会うようになり、打ち解けるのにそう時間は掛からなかった。
始まってすらいない

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