「あ、マヨリーン」

そういえばマヨネーズ切れそうだったっけ、とスーパーの調味料コーナーにふらっと立ち寄った。お買い得と大きく書かれたポップに手を伸ばしかけていつだかの会話を思い出してしまった。

「マヨネーズ買ったら見といてくれ、か」

マヨネーズ工場への招待券が付属されてたのはもう去年の話で、今更このメーカーのマヨネーズを買ったところで何も意味ないんだけど。
お買い得と謳われるそれじゃなく少し値が張る有名メーカーを手に取ったのは誰かさんの笑顔が浮かんでしまったからで。

「もうそんな会話もしないんだろうけど」

少し雑にカゴの中へとマヨネーズを滑らせた。
一年経っても忘れるどころ膨れ上がるこの気持ちが爆発して消えてしまえばいいのに。


いつもなら定時で帰れるのに今日は帰らなかった。別に深い意味があったわけじゃなくて、なんとなく会社の窓から見た空が綺麗だったからだ。明日の準備もしておこうかな、なんて電源を落としたばかりのパソコンを再起動させる。冬の空は澄んでいて星がよく見えた。残業代なんてものは出ないけど、一人で家にいるよりずっと楽に気持ちになれた。気づけば21時をとっくに過ぎていて慌てて帰路に着いた。

「はいそこのお姉さんちょっと待ってくれやす?」

いつも通り会社の裏口から出てこれまた狭い道を歩いていれば背後から肩を捕まれる。ビクッと驚きつつ振り返れば懐中電灯片手に沖田くんが立っていた。

「おおおお沖田くん?!」

「そんな驚くこたァーないでしょう」

バクバクと騒がしい心臓を両手で押さえるようにコートの襟元を抑えれば沖田くんがニヤっとしながら「驚きやした?」と言った。こんなの誰だって驚くに決まっている。顎の下から顔面を懐中電灯と照らして背後から声なんてかけないで欲しい。

「…なにしてるのこんなところで」

ニヤニヤする年下にからかわれたのだと知り少し冷たく返せば「あんたこそこんな時間に何してるんでィ」と聞かれてしまった。何してるって、ただ普通に歩いてただけじゃないか。

「会社帰り」

「こんな時間にですかィ?前に会ったときはもっと早かったと思うがねィ」

「そりゃ残業もあったりするよ?」

「だとしたらこんな暗い道をわざわざ選んで帰らねェー方がいいですぜ」

最近強姦事件が多発してるんでさァと言った沖田くんがついでだから送ってくと歩き出した。強姦事件やらなんやらがよく起こるのか、江戸は私が思っているよりも随分と物騒らしい。沖田くんと十四郎があまり仲が良くないことを知っているし、わざわざ私の話題も出さないだろうと家の真ん前まで送ってもらった。

「わざわざごめんね、ありがとう」

裏路地を入って大通りよりも暗いところにちょこんと申し訳程度に灯された街灯。沖田くんが「こんなところに住んでるんで?」と言った。元の家を知るわけがない沖田くんにそうだと言えばもっと明るいところに引っ越した方がいいんじゃねェーかと言われてしまった。

「うーん…大通りに面してると家賃高いから」

「そんな変わらねェーだろィ。まあ歌舞伎町よりかはマシだろうけど」

「沖田くんがまさか私の身を案じてくれるなんて思わなかったよ」

「今あんたが言ったことと同じことを野郎にも言われやした」

そんなに俺は冷たそうに見えやすかィと言われて見た目だけなら優しそうに見えると思った。十四郎から聞いていた沖田くんはとんでもなく手のかかる悪ガキだったけどそうでもないのかも知れない。返答に困ってフニャと笑いすごそうとすればトイレを貸してほしいと言われた。

「え?トイレ?」

「寒い中立ち話なんざしてたらぶるっと来ちまいやした」

「あっ、そっか、うん。いいよ、上がって」

狭いけどどうぞ。沖田くんはお邪魔しやすと言って靴を揃えて脱いだ。十四郎はお邪魔しますなんて言ったことないのに。靴だってこんなちゃんと揃えなかったよなぁ。あれ?沖田くんより十四郎の方がずっと手のかかる悪ガキだったんじゃない?
ありがとうございやしたァとトイレから出てきた沖田くんが帰る素振りを一切見せずに腰を下ろした。用が済んだなら帰れと言うほど別に困りはしないから何か飲む?と聞けば温かいお茶を要望された。あ、こういうところは十四郎と似てるかもなんて。

「渋いね、お茶なんて」

「野郎はコーヒーの方が好きだろィ」

「別に十四郎と比べて言ったわけじゃないよ」

「どうだか」

沖田くんは鼻で笑ってテレビをつけた。お茶を出して私も対面に腰を下ろす。会話をすればするほど私は沖田くんに全てを見透かされる気がした。目を合わせればそこから知られたくないことまで知られてしまう気がした。だから私もテレビを眺めた。別段興味をそそられない内容だったけど、なにかをしているということが重要だったのだ。
無言でテレビを見ていた沖田くんが「ああそういえばアンタ」と話し出したから慌てて顔を上げた。

「野郎とヤったろィ」

「…なんの話かなぁ」

「何のって、だからセックス」

可愛い顔して、沖田くんの口から出たその言葉に戸惑う。もっと他に言い方があったでしょう。そんな、丸裸で、そんな風に言わなくったって…。

「えっと、お茶、お代わりいる?」

わざとらしくあからさまに話を変えようとした私に沖田くんはニヤニヤしながら「下手くそだったから振ったんですかィ」と言った。

「下手くそって…」

「じゃなきゃ振る理由なんざねェーでしょう。だってアンタは野郎に惚れてやがるんだからねィ」

「振ったわけじゃない」

「じゃあなんでィ」

この場合なんて答えればいいのか分からなくて、沖田くんのお姉さんの話をするべきではないと分かっていて。私は口を閉じた。沖田くんはやっぱり十四郎の言うクソガキがピッタリかもしれない。踏み込んで欲しくないところへ土足で踏み込んでくる。

「大人を揶揄うとそのうち痛い目見るよ」

「大人?アンタと野郎が?」

テメェの気持ちも分からねェー奴等が人生の先輩面してんじゃねェーや、と言った沖田くんは次の瞬間私を押し倒していた。突然の出来事に上手く立ち回りができずされるがまま、馬乗りになられてしまった。

「…なにがしたいの」

「分かりやせんかィ?俺ァ結構野郎が好きなんですぜ」

「それは初耳だなあ」

「あっ、今のは少し吹きやした。元々は嫌いでィあんな奴」

「最近好きになったの?」

「んー…まあ野郎の考えも分からなくねェーっつーか」

「へえ。そりゃあ良かったね。仲良くしなよ」

「男に押し倒されてんのに随分と余裕がおありで」

それはビビってたまるかって気持ちと、もういっそのこと沖田くんでもいいから十四郎のこと忘れさせてくれないかなっていうずるい気持ちからか。沖田くんに言われて気づいたけど、私はどうして身動きが取れない状況で見下ろされているのにこんなにも穏やかな気持ちなんだろう。

「もういいんだよね、本当に」

それがなんの話か聞かずに沖田くんは胸ポケットから携帯を取り出した。ピローンと間抜けな音がしたかと思えば見せられた私の写真。

「本当にもういいって思うんなら野郎と決着つけたらどうなんでィ?ずりィーよなァ、なにも言わずに自己完結して」

「どういう意味」

「野郎の気持ち、少しは考えてやったことありやす?」

「…沖田くんがそんなにも十四郎を大切に思ってると思わなかったよ」

じゃあ逆に私の気持ちは考えてくれるの?と言いそうになって、やめた。沖田くんには関係ないじゃないか。これは私の問題だ。

「同じことを野郎も姉上にしやがったんでねィ。見ててムカムカするんでさァ」

この辺に変なもんが詰まってる感じでねィと言った沖田くんからほんの少し、ほんの少しだけ子どもらしさを感じた。いつも完璧な余裕で私の一手先を見据えて会話をしているくせに、その揺れた瞳に子どもらしさが見えて私が泣きたくなった。

「私はお姉さんの代わりにはなれないよ」

「当たり前でしょう。虫ケラごときが姉上に敵うわけねェーや」

そんなこと野郎だって分かってやすと言われて今度は本当に涙が流れた。
ひさしい呼吸


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