以前、十四郎にモテるでしょうと聞いたことがある。十四郎は色恋沙汰に大層興味が無さそうだった。仕事ばかりで惚れた腫れたなんていう話は全くないと言っていたけど、多分私の他にも十四郎に恋をして泣いた女の人はいると思う。

「なまえって詮索してこねえよな」

「え?詮索?」

「女っつーのはどうでもいいことを知りたがるもんだと思ってた」

「突然何の話なの?人のせっかくの休日に朝から呼び出してホチキス留めなんて頼む副長さん」

「仕方ねえだろ、総悟がまたサボりやがったんだ」

「私無関係なのに」

「久しくお前の顔も見てなかったからな、生存確認も兼ねて」

「私の親か何か?」

「それじゃあ俺は2.3歳で親になったわけか?」

「…今日の十四郎はよく話すね。何かあった?」

「いや、昨日飲み会という名の合コンに連れてかれて思ったんだよ」

あ、合コンとか行くタイプなんだ。パチンと留め損じた針が紙にぶらりと引っかかった。
何を思ったの?と十四郎の方をちらりと見れば目が合った。いつからこっちを見てたんだろう。目の下のクマが今日は一段と酷いなと思った。

「お前ほど気の合う女はいねえなって」

多分十四郎はこの日寝不足で、散々近藤さんに連れ回されたって言ってたから二日酔いもあったんだと思う。だからきっとこの話は覚えていないんだろうし深い意味も無かったんだ。
それでも私にとっては、とても印象的でとてもとても重要な出来事だった。


不在着信を開けばもうすっかり覚えてしまった番号が並んでいた。会っていた時は滅多に掛かってこなかった番号は、会わなくなった途端よく見るようになった。何か用があるんだろう、連絡不精な十四郎がこんなにも電話をしてくるのだから。それでも出ないのは、声を聴いたら終わると分かっているからだ。私の精神はギリギリの綱渡り状態なのだ。履歴をそのまま消して、記憶から十四郎を消すかのように瞼を強く閉じる。大きく深呼吸をして会社を出た。

「てめえ…やっと見つけた」

社外へ一歩踏み出してすぐ、ずっとずっと聞きたかった声がした。いやいやまさか。十四郎は私の職場を知らないのだ。会いたすぎて声が聞きたすぎて幻聴がしたのだろうか。もううんざりだ。毎日毎日十四郎のことを考えて十四郎のことを想って十四郎のことで泣くなんて。
そのままもう一歩踏み出せば今度は「無視かこら」とドスの効かされた、どこぞのチンピラみたいな呼び止め方をされた。ゆっくり声のする方へ顔を向ける。

「な、んで…」

「調べたに決まってんだろ。うっかり聞くの忘れちまってたわ仕事場」

大通りを避けてビルとビルの間、つまりは裏口から出入りしてたのに。ヒュウっと建物の間を抜けていく初夏の風は十四郎の方から私の方へと抜けていった。風に乗って香った懐かしいような煙草のにおいにさえ泣きたくなる。もう私は随分と恋焦がれていたらしい。

「聞きてえことが山ほどあるんだが」

「私はなにも聞きたくないよ」

「知るかよ。勝手に居なくなったかと思えば連絡もつかねえし…俺がどんだけ心配したか分かってん、」

「心配してなんて頼んでないっ」

「はっ、おいなまえっ」

ここで泣いたら今まで何の為に会わないようにしていたのかわからなくなる。涙なんか見せたくないと強く願っても十四郎の声が私の感情を更に荒ぶらせた。今の私は心配してなんて頼んでないって、そんなガキくさい返しをして走り出すくらいには不安定なのだ。
十四郎から逃げるように走り出したもののかっこよく逃げ切れるわけもなく、ビルを抜けた裏道であっさりと捕まった。泣いて走って息が上がっている私とは裏腹に「手間かけんな」と言った十四郎は涼しい顔をしている。
もうだめだ。もう我慢できない。握られた腕に感じる十四郎の体温も、先ほどよりもずっと近く感じる煙草のにおいもめんどくさそうに吐かれたため息も全部全部、全部全部が愛しくて堪らない。うっうっといい年して涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら泣き崩れた私に十四郎はもう一度ため息を吐いた。そして俯くようにしゃがんだ私の頭をぐっしゃぐしゃに撫でて「飯でも食いに行くか」と言った。息が切れるほど走って逃げくせに私は頷いていた。

「何食いてえ」

「なんでもいい…」

しゃがみ込んで泣いていた私を立ち上がらせる為、十四郎が引き上げた私の右手は未だに十四郎の左手の中にある。泣いて崩れた化粧を見られたくなくて俯いたままの私の手を引き一歩先を歩く十四郎の黒い革靴をぼうっと見ていた。

「俺今日うどん食いてえんだけど」

「…ん」

「ん、じゃ分かんねえっつーの。嫌なら嫌って言えよ」

「別に嫌じゃない」

なんだっていいんだ、本当に。今は夕飯のことなんて考える余裕がない。可愛くない返ししかしない私に十四郎は舌打ちをした。そして「お前の考えが分からねえよ」と捨て去るように言った。私にだって十四郎がなんでこんなことをするのか分からないからお互い様じゃないか。
しみるきずあと


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