「よしとっ」


とうとうこの日がやって来てしまった。約束の期限、三ヶ月が経ってしまったのだ。
部屋の荷物を昨日のうちにまとめたので、今日はこれといってやることがなかった。朝のうちに出て行こうと思ったけれど、高杉さんとの別れが惜しくて結局夕方まで居座ってしまったのだった。
そして今、やっと重い腰を上げることができた。

荷物を玄関まで運び終え、今日一度も顔を合わせていない高杉さんの元へと向かう。どうして最後だと分かっているのに部屋にこもっていたのだろう。高杉さんは私が出て行くことを何とも感じていないのだとしたら少し寂しいと思ってしまう。


「高杉さーん、高杉さーん?」


ノックをしながら声を掛けてみた。いつもならすぐに返答があるのに今日に限ってないらしい。寝ているのかも知れない。そういえば昨日、やることが山積みだとか何とか言っていた気がする。
挨拶くらいしたかったけど、寝ているなら仕方ない。それに勝手に部屋に入るのは禁止されている。諦めて玄関へと向かおうとした時、ガタッと物音がした。


「高杉さ、」
「諦んの早すぎんだろーが」


悪い、手が離せなかったんだよ。と言いながら高杉さんが部屋から出てきてくれた。寝ていたものだと思ってたのに、その顔は寝不足の時同様疲れてるように見える。
言いたいことはたくさんあった。お世話になりましたなんて一言じゃ伝えきれないくらいあった。なのにそれを表せる言葉がうまく探せなくて、自分の語彙力を恨んだ。こんなことならもっといろんな本を読んでおくべきだった。ドラマとかである別れを惜しむような素敵な台詞が出てこない。


「言葉にしなきゃ分からねえのか」


何も言えなかった私に一歩、歩み寄りながら高杉さんが口を開いた。


「行きたきゃ行けよ、引き留めねえから」


そしてまた一歩、近づく。
ゆっくりゆっくりと確実に近づくその距離に、胸が痛いくらい締め付けられた。
行きたいわけないよ、行きたいわけがないんだよ。


「だっ、て。三ヶ月の契約っで」


喉がからからに乾いて、言葉一つ一つを紡ぐのに息を飲む。ごくんっと唾を飲み込んだ音が脳内部まで届いた。


「だからなんだ。俺が聞いてんのはそうじゃねえよ」


俺の元から離れられんのか、と言った高杉さんはもう目の前にいた。嗅ぎ慣れたはずの煙草のにおいがやけに鼻につく。握りしめた掌の中だけじゃなく、足の裏にまで熱が篭る気がした。
引き留めないって言ったくせに、そんな質問するなんてどうしてくれるのだろう。

'なぁ行けるのか?'
高杉さんの声が耳にダイレクトに伝わった時、私は初めて高杉さんを自分から触った。あ、いや嘘だ、以前髪を撫でてしまったことがある。


「高杉さんと、一緒がいい」


胸の内に閉まっておこうと思っていた。言わないつもりだった。言ったらダメだと思っていた。
それでも止めどなく流れた涙と共にぽろりと出てしまった。


「高杉さんが好き、高杉さんと一緒にいたい」


床にシミが出来てしまっている。顔を見るのが怖くて下を向くしかできなかった。
すると頭の上に手が置かれ、軽く二度叩かれた。そして顔を上げろと言われ、強引にも顎ごと持ち上げられた。


「上出来だ」


涙で揺れる視界に満足そうな顔の高杉さんが映って、余計に泣いた。なにが上出来なの、どこが上出来なの。
もうわけわからなくて、いい年してヒックヒックっと泣いてやった。女泣かせはいつか絶対痛い目見ると思う。

等しき泣いて落ち着けば外はすっかり日が沈んでいた。泣き腫らした顔をしているから暗いほうが好都合だ。
ズビズビと鼻をすすりながら顔を上げれば、高杉さんはやっと泣き止んだかと呆れたように言ってくれやがった。泣かしたのは高杉さんなのに。

出来れば笑ってさよならがしたかった、もっと欲を言えばいい女友達のポジションを手に入れてこれからも遊びに来たかった。
告白なんてしちゃったらそんなポジションどう足掻いても手に入らないじゃないか。
パチンと頬を叩いて無理矢理顔を引き締めれば、高杉さんは驚いたように目を見開いていた。


「もう、行くね。長々と居座って、その、本当にごめんなさい」


結局シンミリムードにしてしまって慌ててありがとうも付け足した。高杉さんは謝ったり感謝したり忙しいなとか言って全然別れを惜しむ様子が見受けられない。ほらね、やっぱり私だけだったんだよ、寂しかったのは。


「じゃあ先に駐車場に行ってろ、俺も荷物運ばなきゃなんねえから」
「……え?」
「だから先に駐車場に行ってろつってんだよ」
「だから、え?」


もういい面倒くせえ、とボヤいた高杉さんは部屋からかなり大きなキャリーバッグを二つ転がしてきた。全く状況が飲み込めない。どうして高杉さんがキャリーバッグを引いているんだろう。


「早く出ろよ、後ろがつっかえんだろーが」
「わっ、ちょ、たかっ高杉さん!?」
「なんだよ」
「だって、どうして、」
「見りゃ分かんだろ、荷物運んでんだよ」


理解なんて出来なかったけど、私も荷物を持って後に続いた。荷物が少ない私とは違い、高杉さんは三往復くらいしていた。やっと全てを運び終えたらしい高杉さんが車に乗り込み、私にも乗れと言う。
そうか、暗いから送ってくれるのか!なんて無理矢理自分を納得させた。送ってくれるのだとしたら高杉さんは何の為に荷物を運んでいたんだろうという疑問は見えないふりをした。

車を15分ほど走らせれば、私の新しいマンションに到着した。お礼を言って降りようとすれば高杉さんも降りて先ほど運んでいた荷物を持っている。


「な、にしてるの?」
「何度も言わせんな、荷物運んでんだろーが」


鍵持ってんだろ?と聞かれて頷けば先に行って玄関開けといてくれと言われた。もう私の頭の中はハテナがたくさん浮かんでいる。
先ほど同様、三往復くらいして高杉さんの荷物が運ばれてきた。初めて入るはずの部屋なのに、全然違和感がないのは今までいたマンションと同じ作りだからだろう。しかも高杉さんも一緒にいるし。


「あのね、高杉さん……どうして高杉さんもここに居るの?」
「俺もここに住むからだろ」
「えぇっ!?」
「俺と一緒にいてえんだろ?」


そういって私の頭の上に手を置いた高杉さんはフッと笑っている。


「えっじゃ、じゃあ、」
「明日は食材を買いに行かねえとな。野菜ジュースと乳製品飲まねえと」


だから早く寝ろ、と高杉さんの部屋になるらしきところへ入っていってしまった。玄関に一人残された私は驚きよりも嬉しさが勝って笑みが溢れる。
部屋に荷物を運びもせずそのままリビングへと向かえば、家電がすでに用意されていた。


「高杉さんっ!」


急いで高杉さんの部屋のドアを叩けば、中からうるせえなと聞こえたけど開けてくれた。
詳しく説明してもらわないともう嬉しさよりも驚きの方が勝ってしまいそうだ。


「勝手に決めやがったから仕返しだ」


そう言って意地悪そうに笑った高杉さんが「もうそろそろ晋助って呼べよ」とか言うから嬉しさ何てものはどこかへ行ってしまった。その代わりに驚きが爆発したらしい、手が震えてしまう。


「三ヶ月つーのは俺の都合じゃねえよ、ありゃーマンションの都合だ。リフォームすんだと」


それからここに住むことはお前よりもっと前から決まってた、と続けられた。そこで坂田さんがへらへらと笑う様子が脳裏に浮かんだ。この二人、グルだったんだ!


「じゃ、じゃあ!さっきの私の涙はなんだったの!一緒のところに引っ越すならあれ全く必要なかったと思うんだけど!」
「必要に決まってんだろーが。いつまでもただの同居人でいてえのか?」


新しい生活のスタートだな、と言った高杉さんがわざと耳元で「なぁ?なまえ」と言うもんだから体内の熱が沸騰してしまった。
初めて名前を呼ばれた気がする……熱い、熱い、熱い。

好きだとか付き合おうだとかそんなことは一ミリも言われていないけれど、きっとそういうことなんだと思う。だって、高杉さんが「こっちが寝室でそっちは俺の仕事部屋にするつもりだ」と今までとは違う部屋振りをしているのだから。