沖田総悟




学生時代、働き出したら自由が増えると思っていた。お金も時間も今よりもっと増えて優雅に女磨きをして、イケメンの年上と社内恋愛なんかしちゃってそのまま寿退社。そんなものを夢見ていた。しかし現実はそんな甘くない。今日も今日とて時間に追われ、稼いだお金は生きているだけでなくなる。癒しが欲しい、たまにはなにかに癒されたい。

「はあー、疲れたー」

ディスクに突っ伏して、大きな溜息を一つ。やっと、やっと、帰れる。ここのところ定時でなんて帰れていなかった。疲れた、と覗き込んだスマホに疲れ化粧のよれた顔が映った。

「溜息なんか吐いて、やだねィこれだから男っ気のねェー女は。おっさん臭くていけねェーや」

疲れ切った顔を見てもう一度溜息を吐いた私の頭上から、沖田が言葉を落とす。同期で同い年の彼は、顔こそいいものの一々突っかかってくるいけ好かないやつだった。

「溜息くらい誰でも吐きますー。あれ?沖田もまだいたの?」

定時をとっくに過ぎたオフィスに、私以外まだ残っていたのか。集中し過ぎていて気づかなかった。顔を上げれば見下ろすように私を見る沖田と目が合った。

「どっかの誰かさんがボツにされた企画書、俺のが採用されたんでねィ。その最終確認」

頭の上に乗せられた書類の束。こないだ私が通せなかった企画を、沖田が取ったのか。同期で同い年、憎たらしかったりもするが入社時から共に働いてきた仲間としては素直に嬉しかった。しかも今回の企画は出世に大きく影響するだろう。どうしよう、沖田がある日突然上司になったら。それは嫌である。企画を取れたことは素直におめでたく思えるが、沖田に命令されて仕事するようになったらと考えると悪寒が走る。それとこれとは話が別だ。おめでとう、と言いつつも引きつった笑顔を見せた私の鼻を思いっきり摘んだ沖田が「すげえブス」と笑う。ほら見ろ、こんなやつが私の上司になるかも知れないなんて…。

「帰るんだろィ?送ってってやらァ」

「え?本当?」

「んなに疲れ切った女が電車に乗っててみなせェーよ。おぞましいだろィ」

「なにそれ、失礼にもほどがある!」

早くしろィ、置いてくぞ。
沖田が本当に置いて行こうとするから慌てて荷物をまとめた。待ってよ、と追いかけた。

「シートベルトしなせェ」

沖田の愛車に乗り込む。意識していなかったけど、車というのは案外距離が近いらしい。沖田が眼鏡なんてかけるからどきりとした。

「目、悪いの?」

「夜運転するときだけ、一応かけてるんでさァ。俺がかっこいいからって見惚れてんじゃねェーぞィ」

「見、惚れてなんかっ!!」

図星を突かれヒヤッとした。見惚れてない、見惚れてない。ちょっと眼鏡姿が知的に見えたとか、ちょっとだけいつもより大人っぽく見えたとか、それだけだ。断じて初めてみた沖田の眼鏡姿がかっこよかったとか、真剣な顔して運転してる横顔がかっこいいだとか、車に乗った瞬間に緩めたネクタイが色っぽいだとか、そんなの思っていない。私は疲れているのかも知れない。疲れ過ぎてイケメンフィルターをかけて沖田を見てしまって居るのかも知れない。浮かんだ思考を振り払うようにぶんぶんと頭を振った。

「苗字の家、どの辺だっけか」

会社を出て駅の方へ向かった沖田が思い出したように聞いてきた。そういえば送ってくれると言っていたけど、私たちは会社以外で会ったこともなければ互いの最寄駅さえ知らない。

「××駅のところ。分かる?」

「だいたいなら」

「ナビしようか?」

「アンタに頼まなくても最新のナビ搭載してらァ」

住所、と言われて答える。信号待ちをしながら沖田がナビをセットした。ラジオもなにもかかっていない車内は静か過ぎて緊張する。沖田相手に何故緊張しなければならないのだろうか。車内に充満する沖田の匂いがくすぐったい。

「いい匂い…」

今までも沖田はいい匂いがすると思っていた。シャンプーなのかボディーソープなのか、はたまた柔軟剤なのか分からないがさっぱりした清潔感のある、そんな匂い。すんすんと鼻をすすった私に沖田が「なんのにおいでさァ」と不審そうに声を出した。

「なんだろう、沖田の匂いがする」

「気持ち悪ィー、とんでもねェ変態女乗せちまった」

変態女と言われて恥ずかしくなった。別に深い意味はなかった。ただいい匂いがするから言葉に出しただけ。それだけなのに、ドキドキと胸が高鳴った。やっぱり疲れてるんだ。沖田相手にどうしてこんな理解しがたい胸の高鳴りなんぞを感じなければならないのだ。はあ、と溜息を吐けば沖田が「それ以上幸薄そうな顔してどうするつもりでさァ」と言った。

「沖田は毎日楽しそうだよね、羨ましい」

「別にー。まァ、アンタよりは楽しいかも知んねえなァ」

「いいなあ」

沖田くらいイケメンだったら人生楽しいんだろうな、と羨ましくなった。同い年なのにどうしてこの人は切羽詰まった顔をしたりしないのだろうか。いつも余裕たっぷりだ。定時で上がれず疲れきった私と違い、涼しい顔して運転している沖田は妙にいい男に見えた。やっぱり今日の私はおかしい。車の振動と沖田の匂いが睡魔を呼び寄せる。ゆっくり降りてきた瞼は重くて、少し休もうと拒むことをせずその眠気を受け入れた。

「ほれ、ついたぞィ。降りなせェ」

揺すられ、びくっと目を開ければ眼鏡をした沖田が私を覗き込んでいた。慌てて外を見れば私のマンションの下だった。

「ごめん、こんなに寝るつもりじゃなくて、」

「口開けてよだれ垂らしていびきかいてたぜィ」

「えっ、嘘?」

恥ずかしい。疲れていたとはいえ、そんな姿をさらけ出していたのだろうか。恥ずかしい。わあ、と慌てて口の周りを拭る。

「嘘でィ」

疲れてんだろィ、お疲れさん。
そう言った沖田はいつもと変わらず涼しい顔をしている。多分、他意はない。爆睡してしまうほどに疲れていたから、お疲れさんと言ってくれただけだろう。なのに、沖田から目が離せなかった。

「あっ、えーっと、」

「なんでィ。変な顔しやがって」

キョトンとした沖田が可愛く見える。さっきまではかっこよく見えてたのに、今度は可愛く見える。もう訳が分からない。だってこれは沖田だ。私にぶすぶす言ってくる沖田である。

「あ、ありがとう!また明日!気をつけて帰ってね!おやすみ!!」

一気に伝えたいことを言葉にすれば沖田がびっくりしたように元から丸い目をさらに丸くした。そしてククッと笑ってから「アンタ、考えてること筒抜けすぎねェーかィ」と言う。

「?そうかな…」

ガチャと車内の鍵が閉められた。え?と首をひねれば沖田が意地悪そうな顔して笑う。

「送ってやったんでさァ。礼は?まさかねェーんで?」

ゆっくり近づいてきた沖田の整った顔。ど、うしよう。え、まさか、これって…。
瞼をきつく閉じる。どきどきと煩い心臓を静めるように手を握りしめた。

「なーに期待してんでさァ。変態女」

楽しそうな声色とピローンといった音に目を開ければスマホ片手にニヤニヤしている沖田。

「なっ、写真消して!」

「嫌でィ。こんな面白いの消すわけねェーだろィ。はー、腹痛ェ」

むっかつく!むかつくむかつく。キスしそうな雰囲気にしたのも、顔を近づけてきたのも沖田なのに!恥ずかしさとむかつく気持ちが爆発しそうである。顔が熱い、恥ずかしい。あーもうっと大きめな声で言ってからシートベルトを勢いよく外した。

「わざわざありがとうございました!!お気をつけておかえりください!!!おやすみ!!」

バンッと思いっきりドアを閉めてマンションへと小走りで向かった。あの野郎、そりゃ人生楽しいだろうよ。腹抱えて笑いやがって。家に入りパンプスを脱ぎ捨てる。それでも先ほどの出来事が頭から離れず、どきどきしたり恥ずかしかったりイライラしたり。疲れなんてもう忘れていた。忙しいほどにいろんな感情が出てくる。沖田に写真をちゃんと消してねと伝えようと携帯を取り出して、浮かぶ新着メッセージにトドメを刺されたのだった。

「っつ!もう、ほんっとーに事故れ!!!」

"今度飯奢りなせェーよ"という一文とともに送られてきたのは私の寝顔だった。しかも待受をスクショしたかのような写真である。ムカついて"私の写真が待受なの?私のこと大好きだね!"と絵文字を大量に使って返信してやれば"じゃなきゃわざわざ残業してまで送らねェーだろィ"と返信が来て携帯を落としてしまった。
明日から、私の日常が少しづつ変わっていく気がした。

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