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驚いた。まさか働くということがこんなに難しいなんて知りもしなかった。一週間の猶予を貰ったものの、五日過ぎても職は決まらない勿論住むところも決まらない。自分がどれだけ世間知らずか突きつけられる。今まで甘えて親に抱っこにおんぶ肩車までされていたからだろうか。ダメ元でやって来た定食屋。財布の中を見てため息しか出ない。お腹は空いたけどお金がない。ここでお腹いっぱい食べたら明日からの生活がやっていけない。仕方なくカレーライス小を頼んだ。待ってる間壁に貼られたメニューやら町の情報誌やらを見ていて"アルバイト募集"の文字に目が止まる。

「はいお待ち!カレーライス小っ」

粋のいいおじさんがカレーライスを置いた瞬間、私は「働かせてください!!」とおじさんの手を取った。


やっと決まったアルバイト先。仕事内容はそこまで難しくなかった上に、店主のおじさんが面倒見良く本当によくしてくれた。

「おいおいなまえちゃんこれで何個め?なんで洗い物頼むと食器割るの?」

「すみません。手が滑って」

「怪我なきゃいいけど気をつけてよー?」

皿を割った数、三日で八枚。湯のみを割った数(欠けてしまったのも含めて)十数個。釣り銭間違えてしまったりと他にも失敗は多いけど、ご厚意でどうにかクビにはなっていない。おじさん様様である。
ガラッと開いた出入り口におじさんがいらっしゃいっと言った。そして私に水を持ってくように言う。お冷お冷とやって来たお客さんを見てグラスを落としてしまった。

「おい大じょ…お前」

どうして、なんでここに来たの。忘れもしない土方さんだ。驚いた、そりゃ驚いた。あの縁談の日まで一度も会ったことなかったから、きっともう二度と会うことはないだろうと思っていたのに。まさかこんな短期間でこうも偶然会うとは。逃げる必要なんて何もないのに、気づいたら走り出していた。背後からおじさんの声がした。それでも足は止まらない。いやだって、なんか怖いんだもんあの人。

「おい待てッ。お前は、なんで逃げやがるっ…!」

「うわっ、えっ、なんでっ」

まさかの追いかけて来たぁぁぁぁああああ。だからなんで。どうして追いかけてくる。また?また私なにかしたの?待て、嫌です、待ちやがれ、嫌です!の攻防は町内を一周して終止符を打った。勿論私が捕まったのだ。ゼーゼーと上がり切った息で「どうして追いかけるんですか」と聞けば「なんで逃げんだてめえは」と聞き返されてしまった。私の方が先に質問したのに質問で返すなんてずるい。

「そりゃっ、だって追いかけ、てくるからっ!」

途切れ途切れである。苦しい。こんなに走ったのはいつ振りだろう。乳酸が溜まってなんか気持ち悪い。腕をがっちり捕まれて痛いくらいだった。

「追いかける前に走り出したろうが」

「条件反射でっ」

「だからなんでだよっ。着物届けに行っても居ねえし」

「それはー…」

貴方が家の前にパトカーなんか停めたからである、というのはちょっと違うと言葉を飲み込んだ。その前からあの二人は私を家から出したかったんだろうし、パトカーが家までやって来たなんていうのはあの二人からしたら追い出す口実でしかないだろう。
なんでもないですと言えば土方さんは「それお前の癖か?」と言った。意味が分からなくて首を傾げる私。

「こないだもなんでもないって言ってたな」

そうだっただろうか?覚えていない。捕まれていた腕が少し緩んだのを見逃さず逃げ出そうとすれば先ほどよりも強く掴み直されてしまった。

「ちょ、あれ?なんか痛みが増したんですけど」

「隙みて逃げようとしてんじゃねえよ。ガキかお前は」

多分この人私と同い年くらいなのに、と思ったけど言わない。もっと腕が痛くなる気がしたから言わない。

「つかあそこで何してたんだ?」

「何って、バイトですけど」

「は?」

「え?」

いつからと言われて三日前からと答える。土方さんはだからか、と何かを納得したらしい。一人頷いた。

「土方さんこそ何してたんですか?」

「飯屋に飯食いに行く以外にしに行くことあんのか?」

…ないけど。ふんっと鼻を鳴らし人を小馬鹿にしたような態度にイラァっとした。この人私に何か恨みでもあるの?どうしてこんなに突っかかるんだろう。

「逃げないんで離してください」

「逃げんだろ」

「逃げないですよ。仮に逃げたとしてもこないだ無実だって証明されたじゃないですか」

どうして構うんですかと聞けば土方さんは煙草を取り出し「逃げられんと気分悪ィーだろーが」と言った。知るかそんなこと。

「つか仕事放っぽり出していいのかよ」

「あっ!だめだ、またクビになっちゃう!」

「また?」

「そうなんですよ。この年まで働いたことないって言うと中々雇ってもらえなくて…やっと決まったのにっ!」

「この年って…お前いくつだっけか」

「女に年齢聞くなんてモテないですよ」

「テメェにモテてーとは思ってねえから心配すんな」

気に食わない。いけ好かない。この人はどうしてこうも私をイライラさせたがるんだろう。それとも私がカルシウム不足なんだろうか。土方さんはいくつですか?と聞けば「二十七になった」と言われて驚いた。

「えっ、私もついこないだ二十七になりました」

「は?」

「えっ?」

「いや…ガキ臭えから下かと思ってた」

ガキ臭えって…そこは若く見えたとか言ってくれればいいのに。そうですか、と言えばその年まで働いたことねえのかよと呆れた口調で言われてまたもやイラっとしてしまう。私絶対的にカルシウムが足りてないらしい。

「働く理由がなかったんです」

「全国民に納税の義務があんだろ」

「親がやってくれてましたよ」

「へえ。どうりで」

"世間知らずのガキに見えたわけだ"と言われて返す言葉が見当たらない。そんなこと私が一番分かってる。なんで数えるくらいしか話したことない人に言われなきゃいけないんだ。

「悪口なら私のいないところで言ってください」

「別にそういうつもりで言ったんじゃねえよ」

「じゃあどういうつもりですか」

「つかさっさと戻って頭下げねえとやべーんじゃねえのか?仕事」

バイト中だったんだと思い出して慌て出した私に土方さんがため息をつく。

「ったく、仕方ねえな。さっさと戻んぞ」

「えっ?土方さんもですか?」

「当たり前だろ。飯食いに行って食わずに帰れるか」

行くぞと引かれた手はもう痛くなくて、なんだか少しだけ悪い人じゃないのかもなんて思った。店に戻ればおじさんからものすごく怒られたけど、土方さんまでもが一緒に頭を下げてくれしかも警察手帳を見せ「なにかあったら俺が責任とる」なんて言ってくれてしまった。

「…土方さんはよく来てくれてるし、まあなまえちゃんも不器用なりに頑張ってくれてるのは分かってるから。二人とも頭上げなさい」

「本当にすみませんでしたっ」

「いいっていいって。その代わりもう途中で走り出して行かないでよ。心配するしさ」

おじさんの優しさに胸が痛い。親でさえ私を心配なんて口先だけでしか言わないのに。あ、だめだ、優しくされることに私慣れてない。

「なんだその気色悪い顔は」

「は」

涙が出そうー…なんてのは一瞬で粉々に砕け散った。土方さんが私を見てお化けでも見たのかってくらい顔は歪める。

「笑うんだか泣くんだかどっちかにしろよ」

「ほっといてくれませんかね」

「はあ?テメェがなんかやらかしたら俺が責任とるとか言っちまったんだぞ。ほっとけるか。これからは毎日飯食いに来てやる、サボんねえで働けよ」

「すごい嫌なんですけど。それ監視じゃないですか。暇なんですか?なんですか?つかなんで責任とるとか言ったんですか。赤の他人じゃないですか、真っ赤な他人様じゃないですか」

「お前がっ!折角働こうとしてんのにこんなことで駄目になったらっ」

怒鳴ったかと思えば今度は声が極端に小さくなった。僅かに聞き取れるくらいの声量で「頑張りてえんだろ」と言われて調子が狂う。そんなこと言葉にした覚えはない。

「じゃあお言葉に甘えて。おやっさん、私が割っちゃった食器の請求書は土方トシ…さんに渡しといてください」

「はあ?そこら辺は知らねえよ!つかトシさんってなんだよ。十四郎、土方十四郎だ馬鹿」

照れ隠しにふざけた私に土方さんは「とりあえず土方スペシャル、すぐに持ってこい」と言った。そんなメニュー当店にはございません。