心の重りは投げ捨てた


次に連れてこられたは役所。涼しい顔して婚姻届を取った土方さんにもう何も言葉が出てこなかった。嘘でも冗談でもなかった。昨日の言葉は本当で、そして次の日には現実になるらしい。嬉しいとかそういうのはとっくに通り越してしまった。ただただ目の前で起こる次々の出来事に驚かされている。振り返った土方さんと目が合いなんだか恥ずかしくて目をそらせば、土方さんは受け取ったばかりの婚姻届を胸元にしまい「次は駅に行くぞ」と言う。

「駅、ですか?」

「一応な」

どういうことだろう。なぜ駅に行く必要があるのだろう。土方さんの考えが読めず、次に起きる事柄が予想できず眉間にシワが寄ってしまった。そんな私の横をすっと通り過ぎる土方さん。ああ、ついて行かなきゃと私も膝を返せば歩いていると思っていた土方さんが立ち止まっていて小さく声が漏れた。

「心配すんな。大丈夫だ」

広い背中から投げかけられた言葉。何を心配するな、なのか。何が大丈夫、なのか。別に何かを心配したつもりも不安になったつもりもないが、土方さんには私が不安げに見えたのだろう。よく分からないが土方さんが大丈夫だと言うならば大丈夫だという根拠のない自信。

「心配なんかしてないです」

「不安そうな面してるがな」

「土方さんが大丈夫って言うなら大丈夫です」

大丈夫なのだ。どこに行こうが、なにをしようが。土方さんとなら全部大丈夫。そう思えるのはどうしてかなんて、そんなこと聞かれたら上手く言葉で説明できないけれど…。でも。

「私より先に死なないんですよね?」

「保障はしてやれねえがな」

でも、と言葉を続ける土方さんはどんな表情をしてる?後ろからではよく分からないけど。

「まあいいわ。あとでちゃんと、全部終わったらで」

まだまだ土方さんの中にはやりたいことがあるらしい。そうですかと返して離れて行く背を追った。

電車に揺られやって来たのは京だった。行き先も聞かずについて来たけど…ここは…

「もしかしてなんですけど」

「珍しく察しがいいじゃねえか」

ああやっぱり。そうか、土方さんは本当に面倒見がいいのかと笑うしかなかった。小さい頃過ごしていたその街に懐かしさと少しの不安。ここには私の両親がいるだろう。どっちだ?と聞いた土方さんに私は「この突き当たりを右です」と答えた。その先には老舗の呉服店がきっと今も昔と変わらぬままあるだろう。先に歩き出した土方さんの姿をぼんやりとした視界で眺める。私は久しぶりに会う両親にどんな顔をしたらいいのだろうか。両親は土方さんに失礼なことを言わないだろうか。金金金、そして世間体ばかりを気にしていた両親。普通の家とは違うのかも知れないと思っていたそんな二人を土方さんと対面させなければならないらしい。ああ憂鬱だと思った。そんなことを思っていれば足が鉛のように重く感じて動かなくなる。一向に歩き出さない私に気づいた土方さんがはぁと溜息を吐いてこちらへ歩き直してくれた。

「大丈夫だっつってんだろ」

「…何がですか」

先ほど、江戸で言われた時は、この大丈夫が何を指していてもいいと思えたのに。土方さんが大丈夫と言うならそれでいいと思えたのに。なのに今回は素直に言葉を受け入れられなかった。何がですかなんて突っかかった可愛げのない私に土方さんは真っ直ぐ力強く「全部」と言った。

「全部って」

「全部は全部だ。何があっても俺はお前の味方なんだから心配すんな、大丈夫だ」

ほらさっさと済ませんぞと差し出された左手。抽象的過ぎるはずなのに全部と言われて心が軽くなる。この人が嘘を言わないこと、この人が簡単に言葉をペラペラ吐き出さないこと、知っているつもりだから素直に受け入れられる。心にスッと入り込んだ何度目かの大丈夫だは、私の全身を温かく包み込んだ気がした。言葉が人を包み込むなんてそんなこと有り得ないけど。差し出された手を取れば力強く引いてくれる。産まれてこのかた人生に目標も、進みたい方向性も見えなかったけどこの人が向かっていく方へ行けるなら、私は行ってみたい。

「土方さんはやっぱり私を助けてくれちゃいますね」

ふわりと出た言葉にいつもなら「はあ?」と言いそうな土方さんが今日は「大袈裟だな」と笑っていた。


帰りの電車内、私たちは特に会話を弾ませることなくただ流れていく景色を眺めていた。久しぶりに会った両親はやっぱり私のことなど微塵も気にしていなかったし、結婚するという報告にも大して興味を持っていなかった。あんなに結婚しろと騒ぎ立てていたはずなのにこの結婚が自分たちの利益にならないと知っているからか、どこか他人事のように話を聞いていた。ずっとずっと私は両親にとって金のなる木だったのだ。大事に大事に育てられていたとは思う。しかしそれは家の為、見栄の為彼らの為。そんな両親を土方さんがどう思ったのかは分からないが、揺れる車内でずっと握られていた右手だけが救いに思えた。
私にはこの人がいればいい、この人さえいてくれるなら大丈夫。

「土方さんって、私のどこがよくて結婚してくれようとしたんですか?」

「…してくれようとしてねえよ。俺がしてえと思ったからするだけだ」

情けでも哀れみでもねえよ。
外を見ながらこちらを見ずにさらりと言ってくれる。そんな土方さんの横顔を見ながら「そう、ですか…」と振り絞るように返事をすれば土方さんは「申し訳ねえが俺はお前の親を好きにはなれねえよ」と言った。そして続けて「俺の惚れた女はいい女だ」と言う。何をしなくても、何の利益も生んでいないのに、存在を認められた気がして涙が出た。

「私の好きになった人は、世界一良い男です」

「…そうかよ」

握り直すように力の込められた手を、これから先何があっても放してやるもんかと力一杯握った。