水分はこまめにしっかり取ること


本格的に夏がやってきてうだるような暑さに毎日体力が奪われていく。おじさんの作ってくれる賄いは美味しいのに喉を通らない。ダイエットだと言えば聞こえはいいが、ただの夏バテである。「暑い〜」と業務用の大きい冷蔵庫の前でへばっていた私におじさんが「大丈夫かい?」とお手製の梅ジュースをくれた。キンキンに冷えていて美味しい。

「もう昼時のピークは過ぎたし今日は帰っていいよ?」

「おじさんが働いてるのに帰れないですよ」

「いや俺はここ家だから。上が家だから」

時刻は午後三時。連日続く猛暑日に体力はすり減り、なんだか頭が痛い。今まで夏はクーラーがんがんの部屋に居たからか、扇風機と二十八度設定のクーラーだけでは辛い。

「ダメですよ。私ももう働いてるんです。暑いからって帰れないですよ」

「いつも一生懸命働いてくれてるし、たまにはいいんだよ?それに暑いだけならいいんだけど熱中症になったら大変だろう?」

厨房は暑くなるからね、とおじさんが言う。でもここで帰るのは甘えてる気がして嫌だった。店の出入り口が開いた音がしていらっしゃいませと顔を覗かせれば暑いとスカーフを少し緩ませながら土方さんがやって来たところだった。

「あれ?今日は遅かったんですね」

「総悟の野郎がまたやらかしたんだよ」

額の汗を拭う姿に何故かクラクラする。え、なに。土方さんの魅力とかそういうこと?おかしいな、と思いながらお冷を運んだ。手が少し震える気がして、顔が熱くなる。視界はなんだか歪んで見えるし息も少し上がってる気がする。

「土方さんって、そんな魅力的でしたっけ」

「は?なに言ってんだお前」

あ、ダメだー…。意識が、と思った時には遅かった。視界が真っ暗になって足に力が入らない。崩れるようにしゃがみ込んだ私の耳に土方さんの声とおじさんの声が重なって聞こえて、そのまま意識がぷつんと切れた。


段々と意識が戻っていく。体が重くてすごく疲れたように感じた。別に大して働いたわけでもないのに。働いた?ああそうだバイト中だった。しかも土方さんが来てて私はお冷を運んでて、ああ注文も聞いてない。もう食べて帰っちゃったかな?おじさん一人で大丈夫だったかな。そういえば私はどうして意識を失ったんだっけ。
瞼を開ければ見慣れた風景。鼻を抜けるにおいも店とは違ってお腹が空く食べ物の匂いじゃなく、部屋干しした服から香る柔軟剤だった。自分の家だと気づいて慌てて上体を起こす。意識を失っていたからか、いつもよりも体が重く感じた。

「目ェ覚ましたか」

私以外誰もいないと思っていたから他の人の声がして驚いた。「えっ、や、なんで?」と素っ頓狂な声で慌てた私とは裏腹に、落ち着きを払い通常通りの土方さんは「つか女の一人暮らしらしくねェーな」と言う。部屋が汚いと言いたいのだろうが今はそんなことよりも、私が掃除をできないだとかそんなことよりもどうして私の家に居るの?

「だっ、は?土方さん?」

「他の誰に見えてんだよ。まだ沸いてんのか」

「沸い…?土方さんは土方さんにしか見えないですけど、ええ?!」

「そんだけ喋れりゃ大丈夫だろ。カップ麺ばっか食ってっから熱中症になんかなんだよ」

なんだあのゴミの山、とキッチンを指差され途端に恥ずかしくなる。誰も家には呼ばないと思っていたから部屋は散乱しているし、ゴミは溜まりに溜まっているのだ。下着がそのまま部屋干ししてあるのに、と黒白黄色ピンクと色とりどりがぶら下がっている方をちらりと見た。
熱中症、聞いたことはあるけどなったことはなかった。室内にしか居なかったはずなのにと少し疑問に思いながら「そうだ!お店っ」と慌てて立ち上がる。途端にくらくらと目が回り布団の上にしゃがみ込んでしまった。

「馬鹿。ぶっ倒れて意識飛ばしてたやつがそんなすぐ動き回れるわけねェーだろ」

「…でも仕事は」

「きちんと体調戻してから来いって」

ああ、迷惑をかけてしまった。おじさんになんて謝ろう。大丈夫ですなんて言っといてこのざまだ。ふぅ、と一息つき「土方さんもすみません」と伝えた。おじさんにも土方さんにも迷惑かけた。頑張りたくて空回りしてるのかな。迷惑、かけたよね…と天井を見上げる。今まで頑張ってこなかったから頑張り方が分からない。力の抜き具合が分からない。そういえば私、最近ずっと疲れてる。
おじさんの厚意に甘えて今日はゆっくり休もうとのそのそ布団に戻る。まだ頭はぼーっとしていて瞼も重い。具合が悪くなると心細くて、土方さんの背中にもう少しここに居てくれないだろうかと念じてみた。

「水分はしっかり取れよ」

「はい。本当、迷惑かけました」

語尾が弱くなった。当たり前だけど念が通じるわけもなく帰ろうとする土方さん。まあ土方さんが居てくれたところで私はおもてなしができそうもないし、こんな汚い部屋で土方さんができることもないだろう。
見送ろうとも思ったけどやめた。余計寂しいとか思ってしまいそうだ。

「夕飯何なら食えるんだ?」

靴を履きながら、こちらなんて一切見ずに土方さんが問う。夕飯?と聞き直した私に「この家、カップラーメンしかねえだろーが」と呆れた口調で返してくれた。
それってつまり、どういうこと?まさか、心配してくれて、それで。

「冷やし中華…」

「は?冷やし中華?」

「おじさんの冷やし中華、好きなんです」

「あっそ。伝えとく」

後でなと言った土方さんを「あのっ」と慌てて呼び止めた。ああ?と振り向いた土方さんはもうすでに煙草を取り出している。

「図々しいですか?」

「は?」

「私って」

勝手にぶっ倒れて冷やし中華が食べたいなんて図々しくないだろうか。掛け布団を鼻まで引き上げて少し顔を隠した。図々しいのであれば教えて欲しい。世間知らずの厚顔無恥タイプなのだ。でも、おじさんにはお世話になってるから嫌われたくない。

「そんなこと気にしてんのか?おやっさん喜ぶんじゃねえの?」

とにかく水分取って大人しくしてろと言った土方さんは干しっぱなしの下着になんて目もくれなかった。土方さんにもお世話になっている。何もお返しできてないのに、気にかけてもらって…

「一発ヤらせろとか言ってくれたら、楽なのに」

ほのかに私の服から香る、私のではない香りに呟いてみたけど返事はなかった。
無条件で与えられる優しさが痛く思えるのは何故か、そんなこと熱にやられた頭じゃ尚更分からないことだ。